一人の女が街を出て行く。
気が付くともう10年になろうとしている。最初彼女と会ったのはまばゆいイルミネーションと耳をつんざく騒音の中。わたしの視線は彼女に握られ、離す事ができなかった。最初に交わした言葉は「ねえ、私と寝ない?」この言葉で今度は心まで握られてしまった。
彼女は鞄一つでこの街に流れ着いてきた。「親戚も知り合いも居ない、いままでどんな所かも意識した事がない、つまりは自分から一番遠いところ」それがこの街だった。
わたしは彼女にやさしいわけでもなかった。ただ心と目は彼女から離すことができなかった。
彼女のおかげで色々なものが見れた。今まで見ようともしなかった事、見ることができなかったもの、それらに出会う事ができた。
夜の漆黒の中で、乱反射するイルミネーションの中で、金、女、酒、思惑と罠、舞い上がってゆく人々と落ちてくる人々。そんな喧騒と時間の中で、軽やかに彼女はステップを上っていった。「猫と住んでいるの」毎朝ひげの処理をする猫。それも彼女の為にはよい事だと思えた。
暗い路地裏。彼女は見慣れないアタッシュケースを下げてあらわれた。暫くのち、彼女の部屋にそのアタッシュケースがあった。留め金を押すと軽い金属音。あのライターと同じ音が部屋に響いた。中をのぞくとそこには何も入っていない。
湿っぽい地下街。店から流れてくる煙は単なる煙じゃない。鼻腔の奥を擽る粉っぽい、そしてどこか甘い香り。「しばらく近づかない方がいい」留守電に残されたメッセージ。新聞の小さな記事。
満天の桜の下。深夜とはいえ暖かい春の風が花吹雪で二人を包んだ。「写真持ってる?」上機嫌な彼女は珍しいことを言った。それまでも写真にとられる事を極端に嫌っていたのに。「きれいに撮ってくれなきゃ嫌だよ」たまたま車に載っていたインスタントカメラで写した写真が今もある。「何か写りこんでないかな」出来上がった写真をまじまじと見て彼女は言った。
やはり地下街。しかしここには怪しげな空気はない。店から引きずりだされる女、引きずり出しているのはわたしだ、そして女とは彼女だ。それ以外にその場から逃れる方法はなかった。胸倉をつかみはじめて女性を殴った。二人で夜の街を走って逃げ、そして笑った。
死んでいったもの、消えていったもの。
アディクション。わたしはそこに浸れるほど幸せじゃない。度胸がない。
この10年余り、なかなか整理はつかない。たぶん答が出ない問題は様々にあるだろう。
彼女が倒れてから、あいつは金を持って消えたのか。
あいつが金を持って消えたから、彼女は倒れてしまったのか。
わたしには答は見出せない、教えてももらえないだろう。
彼女はこの街を離れていく、来た時と同じように鞄一つを持って。
「ねえ、私と寝ない?」
最大の謎を残して。