蹴りたい蛇の背中にピアス

今月号の文藝春秋芥川賞受賞作である金原ひとみの「蛇にピアス」と綿矢りさの「蹴りたい背中」が載っていたので先ほど読み終わりました。金原の素材の特殊性と、それとは逆に作品のまとまり。綿矢の追求しているものと、それが到達しているかという疑問と。非常に興味深かった。綿矢の場合は、作品全体が身もだえしているかのような印象を受けた。
金原は父親から「両親が地元に住んでいられなくなるようなものを書きなさい」と言われているそうだし、綿矢もその作品自体の身もだえも含めてパフォーマンスであるように思える。文藝作品というのは文章がどうの、テーマがどうのというよりも、この自分自身をどこまで追えて、どこまでそれを曝け出せるかなんだなぁと思った次第。やはりこんなことはある種のフリークス、偏りがなければ適わないことなんだろうと思った。
作家なんてものは別段ご立派である必要は無いし、逆にご立派なだけではしょうが無いんだろう。どうもわたしには作家というものはそれだけで無条件に「偉い」と思えてしまう古めかしい感覚があるようなんだけど。そりゃ幻想だわな。しかし芸能人が健康について信頼できる情報なんぞ持っている保障も無いのに芸能人がテレビでのたまう健康法が受け入れられるように、こういった幻想はそこそこ「常識」の範囲なんだろうか。
このニ作品というのはこうやって続けて読んでみるとなかなか面白い。両方とも「自分しか見えない」(養老タケシが当てた「バカの壁」に通ずるものがあるのかネ)状態で、それでも「自分」を見つめ続けるという作業をしているように思う。
その「自分」の居場所が金原の場合下へ(または上に)向かっているんだろうし、綿矢の場合は内へ向かっているんだろうか。(途中でちょっとズレがあるように思えるんだけど、そのズレ自体が先に書いた身もだえになっているのかもしれない)そんなわたしの読みが有効ならば、金原は底があるのに対して綿矢においては際限が無い分、危険なものを感じる。



ここからは脱線だ、わたしは「石原慎太郎東京都都知事」という存在が嫌いなので充分その辺割り引いて読んで欲しいんだけど。この文藝春秋には選考委員の選評も載っているんだよね、でも石原の選評ってこれで良いんですかね?これってチョットしたスキャンダルなんじゃないのかな。特に気になる部分を引用させてもらう。これは引用だ。今から批評をするための引用だ。

(前略)
金原ひとみ氏の『蛇にピアス』はピアスが象徴する現代の若者のフェティシズムが主題となっているが、私には現代の若もののピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解出来ない。選者の誰かは、肉体の毀損による家族への反逆などと説明していたが、私にはただ浅薄な表現衝動としか感じられない。
(後略)
芥川賞選評「現代における青春の形」石原慎太郎 文藝春秋2004年3月号 p.315

まあ、「若者」「若もの」の表現の揺れはご愛嬌。「青春」なんて言葉が題名も含めて9箇所で使われているのもおいておく*1しかしこれはいかんだろう。
「私には現代の若もののピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解出来ない」
理解できないと言っていることを論うんじゃない。そうではなく果たして彼女(金原)は「肉体に付着する装飾」に「執着」したのだろうかと言いたい。確かにこの(青春大好きの)おっさんがそのような若者の執着を理解出来ないのはそれでもいい*2そしてそれらの「ファッション」に対して
「浅薄な表現衝動としか感じられない」と思うのもそりゃ構わない、しかしそれは金原の作品とは「本質的」に関係無いことだろう。この作品に出てくるルイは「装飾」をしている訳ではないし、金原は「装飾」を足がかりにテーマを描いているのでもない。ルイは「身体改造」をしているのであって、金原は「身体改造」を足がかりにテーマを描いているのではないか?
それをまったく的外れな見方をしていて、どうやって評価できるというんだろうか?
まあ、「選考委員なんて飾りですよ、お偉いヒトだからそれが判らないんです」って事なんだろうか。



あ、それから蛇足中の蛇足だけど。綿矢って会話文の閉じ括弧の直前の’。’を入れるんだね。
例:
「いえ、後片付けが。」
ってこんな感じ。

*1:おいておくと言いつつざっくり言うならば「おい、おっさん『青春』ってななんだよ。そんな未定義な言葉を乱雑に振りまわすんじゃないよ」と言いたいし「そこまで手垢にまみれた言葉を持ち出さなくても」とも言いたい

*2:ここのさ、「肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解出来ない」というセンテンスも金をとってヒトに読ませる文章書こうって事ではどうなの?お前が文章のことをとやかく言うなって?こりゃまた失礼