歴史に学ばないものは馬鹿である

小中学校への携帯電話持ち込みをめぐって、うんざりするような議論が起こっている。

携帯禁止 家庭でも厳しいルールを(産経ニュース 主張)
いま考えたい―子どもにケータイは必要か(IT media)

携帯の一律禁止は問題(YOMIURI ONLINE)


元々は橋下大阪芸人知事の禁止令に端を発した騒ぎらしいが、まったく的を外し、原則が見えていない議論ばかりでイライラする。歴史に学ばないものは馬鹿であるとするならば、右から左までこの国は馬鹿の集まりなのかと疑いたくなる。

持ち込み禁止賛成派の論点は、
1)携帯電話の利用時間と学習時間はトレードオフにある。
2)携帯に付いているメール、インターネット閲覧機能が「学校裏サイト」など、いじめの温床となっている。
3)また、それが性犯罪などの入り口となる危惧もある。

といったようなものだろうか。

それに対して、子供にも携帯を持たせる事を容認すべきとの意見の論拠として、携帯電話の防犯機能などに触れているものもある。


学習の時間に携帯を弄っていて学習が進まないとしたならば、それは授業で指導すべき事柄だろう。そもそも、子供たちが学習に集中できず、携帯電話を弄っているのだとするならば、携帯電話を取り上げたところで、彼らは別の興味の対象を探してそちらに気を散らせ、やはり学習はおろそかになっていくだろう。
これは携帯電話の問題などではなく、「ゆとり教育」の問題の時も、というか、そもそも教育の根幹的課題として着目されている、教育における児童、生徒のモチベーション(学習意欲)の問題ではないか。そして、それは授業技術など、教える側の問題でもある。
学校への携帯電話持ち込みに対して、この論点から「持ち込み反対」を訴える者は、すでにこの段階で「馬鹿」と認定できる。

次に、メールやらインターネット閲覧機能が「いじめ」の温床となる。であるとか、「犯罪の入り口となる」といった議論。これは「新しいテクノロジー」に対して、社会が常に取る態度であって、定型的な「そぶり」でしかない。
まず、「いじめ」であるとか「犯罪」は、携帯があろうとなかろうと常に起きている。携帯電話という新しいテクノロジーがその発生を助長しているとするならば、それに対しては社会学的な調査が必要であろうし、各キャリア、メーカーなどは対策が必要だろう。しかし、よしんば携帯電話がそれらの発生原因であったとしても、出来上がったテクノロジーはなかった事には絶対にできない(このあたりは、テレビというテクノロジーが普及した頃に、「国民総白痴化」と心配された事例が思い出される)。また、そもそも「いじめ」であれ「犯罪」であれ、それが深刻であればあるほど、どんなに制度で抑制をしたところで地下に潜っていくだけだろう。

今、小学校やら中学校に「刃物」を持って行くことは非常識なこととされているようだ。わたしの子供の頃は筆箱に刃物が入っているのが当たり前だった。といっても、別に殺伐とした社会であったから護身用に道具をノンでいた訳ではない、当時わたしたちの筆記用具といえば顔料として黒鉛を含んだ細い芯を、木でできた軸で包んだ「鉛筆」というものが主流であり、それを利用するためには、芯の減り具合に合わせて軸である木を削る必要があった。その為に、「刃物」は必需品だったのだ。「刃物」を使って鉛筆を削るため、当時は誰しも切り傷の一つは二つは指につけていたものだ。だから当時は「刃物」でヒトを刺すというような事件が起こらなかった…なんて(ノスタル馬鹿おやじのような)ことは言わない。当時もそりゃあ刃傷事件の一件や二件はあっただろう。しかし、現在のように、公に「学校に刃物を持っていくことは非常識」とされ、場合によっては法律で処分される対象となっても、やはり刃傷沙汰は校内で起きている。
 刃物がヒトを刺すのではなく、ヒトがヒトを刺すのだ。(とは言え、全米ライフル協会の主張する、銃はまたあまりにも話が違うが)
いま、学校に携帯電話を持ち込めなくなっても、「いじめ」はなくならない、形が変わるだけだろう。「犯罪」もなくならない。「犯罪」に向かうような児童、生徒は、学校やら社会が抑制しても、いや、抑制すればするほど、携帯電話を持つだろう。

今の携帯電話はわたしには「半製品」に見える。内燃機関の前の蒸気機関。現在のテレビの前の白黒テレビやラジオのような存在に感じられる。真のイノベーションはこの次に来る。
イタ村健の騒いでいた「ユビキタス・コンピュータ」の為のインフラ整備にも思える。
このような時代状況をみると、学校が行うべきは携帯電話の持ち込みを禁止して、学校と携帯電話に代表されるコミュニケーションツールとの付き合い方(情報リテラシー)を切り離すことだろうか。それとも、学校が率先して児童、生徒にコミュニケーションツールを使わせ、その使い方、危険性を教えることだろうか。解答は明白だろう。

親もわからないまま、または得体の知れない存在として「携帯電話」を捉え。小学校、中学校と子供たちは「携帯電話」から遠ざけられて育てられる。そして、その危険性も、有用性も知らないまま高校生として「携帯電話」を手にする。としたら、その危険性は想像するに難くない。

19世紀、蒸気機関で動く「自動車」ができたころ、英国はその「新しいテクノロジー」の存在を恐れ、「自動車で走る時は、その前に先行する者を走らせ、赤い旗を持たせること」という法律を制定した。英国の自動車産業の発展を妨げ、今なお笑い物にされる悪評高き「赤旗法」である。
情報リテラシーがこの21世紀の大きな産業基盤であると考えると、「携帯電話悪玉論」とでもいうべきこの風潮は「21世紀の赤旗法」になりそうな気がする。そして、「情報産業大国日本」は、没落してゆくのだろうか。



知らなかった!

首相「7割の宗教で労働は罰」 日本は「善」と認識

 麻生太郎首相は7日の熊本県天草市での演説で、高齢者雇用問題に触れた中で「世界中、労働は罰だと思っている国の方が多い。旧約聖書では神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書キリスト教イスラム教、足したら世界の何割だ。7割くらいの宗教の哲学は労働は罰だ」と述べた。日本については「天照大神高天原を見たら神々は働いていたと古事記に書いてある。我々は働くのは正しいと思っている」と指摘した。(07:52)

日経NET

宗教とは距離を置いているので、キリスト教が、「労働とは神が与えた罰」であると捉えているとは知らなかった。ぼんやりと、資本主義の成立条件として、資本の蓄積と労働があり、これがピューリタンの精神と合致しており、初期米国の資本主義的発展につながったとは了解していたが。でも、ピューリタンプロテスタントなわけで、カソリックではやはり「労働とは神が与えた罰」なのかなあ、と、その出典を探ってみた。
「労働は罰?」† (WEB版★牧会短信 † 2008.12.08 Monday)
創世記
などを見ると、どうも違うみたいだ。安心した。

ところが、
ウィキペディア「労働」
では、「旧約聖書によれば、労働とはアダムとイブが罰として神より与えられたものである」との記述がある。まさか、一国の首相がウィキペディアからの引用?
しかし、ここにもユダヤ教プロテスタントについての労働観は異なるとの記述がるので、首相の発言とは食い違う。

いったい麻生はどこからこんな話を拾って来たんだろうか?

こんなヒトもいた。
Yahoo! 知恵袋

労働とはアダムとイブが罰として神より与えられたものであるらしいのですが、働かないで暮らせる事は幸せなことでしょうか?

この質問者は否定的に質問しているのだとは思うけれど、この首相の発言をつまんで労働を否定的に捉えるようなヤカラが出てこないことを祈る。

…米国なんかでは、大統領といえば、国の父というような捉え方をするのだけれど、一家の父がこんな事言っていたら問題だよな。