お嬢様の混乱

昨日は週刊文春の記事を引いたが、今日は週刊新潮からちょっと面白いコラムを取り上げてみたい。田母神論文でも触れられている当の櫻井よしこ(以下、お嬢様)が連載コラムを持っていて、ここでお嬢様が「文民統制、曲解された日本の解釈」と題していささか混乱した議論を進めている。
特に酷い部分を取り上げてみたい。「ヒトラー文民統制」と題された部分である。( )で囲まれた部分は、引用者であるわたしの記述である。

しかし、文民統制とは一体何か。日本政府は、「軍事に対する政治的優先または軍事力に対する民主主義的な政治統制」と定義している。(平成20年版 防衛白書 第II部 第1章 第3節など)そのことは、軍人である田母神氏の考え方や意見を、政府見解にぴったり合わせなければならないという意味か。『朝日』の主張などを見ると、当然、答えは「イエス」であろう。つまり、自衛官村山談話などに示される政府の歴史観に異を唱えずに従うべきだということになる。そのことは軍人が政府によって、完全に思想も行動も統制されるということだ。いま私は、田母神氏を軍人と書いたが、氏の位置づけは行政官で、基本的に他省庁の公務員と同じである。となれば、公務員はすべて、政府見解のように考え、その枠内で思考しなければならないのだろうか。(ここまでを 節1 とする)
 そうではないのである。『朝日』は五百旗頭氏の言葉を引用して、軍人が自らの信念などで行動することは極めて危険だと書いたが、軍人こそ考える能力が必要だ。盲目的に、絶対的に時の政府に従うことは、恐らく、日本人が軍の在り方の理想として語る文民統制に必ずしもつながらない。わかり易くするために、敢えて極端な事例を拾ってみる。ヒトラーは堂々たる選挙で選ばれた。ヒトラー総統にドイツ軍は従った。選挙で示された民意を代表するヒトラーが統率したという意味で、これもひとつの文民統制とするなら、文民統制の言葉そのものが民主主義国家の求める軍の理想形であるとは言えないであろう。だからこそ、国際社会には文民統制の考え方について明確な定義がないのではないだろうか。(ここまでを 節2 とする)

お嬢様ご本人も「敢えて極端な例を」とおっしゃっているが、このヒトラーの例は酷い。これはレトリックのサーカスのような、文章の曲芸だ。ただ、論理は破綻しており、曲芸であるなら着地失敗といったところだろう。
お嬢様は、「文民統制」という概念を否定するが為に、ナチス・ドイツの例を引かれている。その論理構造はおおよそ次のようなものだろう。
1)ヒトラーは民意で選ばれた。
2)その民意で選ばれた「文民」であるヒトラーに統率されて、ナチス・ドイツの軍隊は行動した。
3)しかし、結果は国を失った。
4)文民統制とは民主主義国家の求める軍の理想形であるとは言えない。

しかし、実はこの(1)と(2)の間にはワイマール憲法の停止という国家変革がある。これは中学で確か習ったと思うのだけれど、ナチス・ドイツというのは「国家社会主義」を唱えており、「民主主義国家」という枠組みでは語れない。「全体主義」の範疇に入る。中学校の歴史の先生は「ワイマール憲法という民主的に進んだ憲法が、ナチス・ドイツという全体主義国家を生んだ」といったような指導をされて、民主主義を守るためには憲法という枠組みだけではなく、それを運用する国民の意思が必要なんだというようなことをつらつら思ったような思い出がある。更に進んで、今では、逆に、このような危険な「全体主義」にも道を開けられる、つまり、自己変革の可能性を秘めた「民主主義」の柔軟性が、他の政体よりも比較優位であるとわたしは思っている。まあ、これは余談。
つまり、ヒトラーの例を持ち出したところで「民主主義国家の求める軍の理想形」を語ることはできない。
民意→全体主義文民統制→破綻
民意→民主主義の文民統制→成功もあれば、失敗もある。
という図式があった場合、「文民統制」自体が問題であるというよりも、政体として「全体主義」が正解か、「民主主義」が比較優位か、という話にしかならないではないか。

そもそもお嬢様は「国際社会には文民統制の考え方について明確な定義がないのではないだろうか」と仰っているが、どうなんだろうか、先に引用を指摘したこの定義であるところの「防衛白書」は読まれているのだろうか。そこにはCOLUMNとして別枠を設け、特に「文民統制」について語られている。
先の大戦において、「統帥権」の暴走により、この国は文字通り滅亡の淵に瀕した。この経験を踏まえ、「文民統制」の重要性が唱えられているのだけれども、その敗戦の痛みが遠のくとともに、このような暴論が走り出すのは単なる「歴史に盲目」となっているとしか思えない。

もしも、「軍人こそ考える能力が必要だ。盲目的に、絶対的に時の政府に従う」必要はない。と考えられるのならば、想像されるといい。自衛隊が現政権を否定して永田町から霞ヶ関を包囲し、軍政を引く姿を。その時、その軍政はいまのような「資本主義」「日米安全保障体制」を支持するとは限らない。どのような政権ができるか、軍人が考えた国家運営がどのようなものであるか、わたしには想像もできない。しかし、少数者が狂信的な理想から打ち立てたような集団/国家は、そら恐ろしい物になるであろうとは推測できる、そう、ぼんやりと朝鮮半島の北側の国を連想する。この論理構成が朝鮮半島の北側にも着地できることを思えば、論理の破綻は明白だろう。

次に、節1の主張は、「公務員はすべて、政府見解のように考え、その枠内で思考しなければならないのだろうか」ということであろうが、これについてのわたしの意見はすでに書いた。お嬢様はつまり、自衛官にも言論、表現の自由はあるとご主張なさりたいのだろうが、しかし、お嬢様の混乱は酷すぎる。お嬢様はご自身のブログに次のようにお書きになっている。(「 『教育』が危ない 」2007年03月08日 初出は同じ週刊新潮のコラムのようだ)

分限をわきまえない自由は真の自由でも独立でもなく、わがまま放蕩で許されない

つまり、教職員に対しては、その思想信条を考慮せず、政府方針に従えとおっしゃっておいて、田母神に対してはその自由を認めろとおっしゃる。一体どちらが正しいのだろうか?何が自由であり、何が放蕩であるか、明確な境目がわたしにはわからない。