どのような「国」を愛せるか。

田母神論文について考えている。
そもそも、なぜこのような文章が出てきたか。という事に興味がある。何度も読み返して気がついた事がある。というのは、この文章は実は逆から読んだ方が理解しやすいということである。

この文章はおおよそ次のような構造を持っている。

1)日本は中国に侵略していたわけではない。
2)日米開戦も、日本が積極的に望んだことではなく策略の結果である。

3)日本は平和的に(そして合法的に)中国、朝鮮半島、台湾を統治していた。

4)日本の行った先の戦争は止むを得ない戦争、引き込まれた戦争であり、
その「責任」はない。

東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている」


5)「日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない」


と、かいつまんでみればこういったことになるだろう。
結局、この文章は、「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない」という結語の一言を言わんがための文章であり、その理由は、と、問われれば、上記の(1)〜(3)そして、そもそもの「古い歴史と優れた伝統を持つ」からであると言いたいのだろう。

11月11日に行われた参議院外交防衛委員会の議論も聞いてみると、「自衛官が誇りを持って日本を守れるために、日本のすばらしさを訴えたかった」というような発言があった。(あとで、議事録が上げられたらこの部分を引用にすること)

11月27日 追記
第170回国会 外交防衛委員会 第6号 平成二十年十一月十一日(火曜日)

「はい。日本の国をやっぱり我々はいい国だと思わなければ頑張る気になれませんね、悪い国だ、悪い国だと言ったのでは自衛隊の士気もどんどん崩れますし。そういう意味で、こういうきちっとした国家観・歴史観なりを持たせなければ国は守れないというふうに思いまして、そういう講座を私が設けました。」(田母神)

井上哲士の質問「田母神参考人は「鵬友」の平成十六年三月号の中で、統幕学校では今年の一般課程から国家観・歴史観という項目を設け、五単位ほど我が国の歴史と伝統に対する理解を深めさせるための講義を計画した、主として外部から講師をお迎えして実施をしてもらっていると、こういうふうに述べられておりますけれども、これは事実でしょうか」との質問に対する回答。

つまり、田母神というヒトは、「一般的」に言われるような歴史認識、つまり、先の大戦において、日本は中国に侵攻し、米国に宣戦を布告した。という認識では「国」に誇りが持てない。といっているのだろうか?

特に気になるのだが。日中開戦の端緒(盧溝橋事件)であるとか、日米開戦について。コミンテルンの策謀によって日本は戦争に引き込まれたという議論が通底している。引き込まれたのなら「責任」はないのだろうか?その当時の日本、大日本帝国というのは、このような重大な決断を「主体的」に決定することができなかったのだろうか。

「責任」という言葉は「権限」と表裏一体であるとわたしは思っている。自己決定の機会を与えられていない事柄に、責任を求めてはいけない。しかし、「責任」を引き受けないところに「権限」も「主体性」も生まれはしない。

更にいうと、他との比較という論調も非常に気にかかる。
つまり、日本は軍を中国に進めたかもしれないが、当時の列強に比べてどうか。という発想である。もちろん、こんな発想は幼稚以外のなにものでもない。確かに当時の国際法は現在の国際法、常識に引き比べて問題は多かっただろう。だから、現在の国際法、国際常識に引き当てて、当時の大日本帝国の政策を断じる事は法的には問題があるかもしれない。しかし、そもそも、その当時の問題がある国際法すら逸脱した行為はあったのであるし、事はそのような法的な問題ではなく、倫理の問題をもって語られなければ現在の問題を解決はできない。

つまり、国際法、国際常識自体が自己反省の下、現在の形になったという営為を無視するということに同意するわけにはいかない。

わたしは逆に考える。もしも「国を愛したい」と思うのならば、その「国」が過去にどのような事を為したにせよ、それをありのままに受け止めて、更にそれを乗り越えることこそが「愛する」という事なのではないだろうか。
そうではなく、過去をなかったことにする。または、その過去を歪んで捉えるという行為は、わたしには薄っぺらな愛にしか思えない。
彼の取る結語「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」はある意味正しいかもしれない。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」とは、ヴァイツゼッカーの言葉であるが、ヴァイツゼッカーは過去を直視し、その「責任」を負うことで、ドイツの国家としての「主体」を取り戻そうとしていると思われる。

それに引き換え、田母神の文章は「責任」を逃れることで「美しい日本」の「無謬」を訴えているだけに、わたしには響く。これは悲しい文章である。


読者の日記 バックナンバー ヴァイツゼッカー大統領演説、戦争責任(2000年07月30日 (日))


ところどころの矛盾。

文章の冒頭にある、「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである」という記述と。

終盤での「日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない」という記述。


「平和的、合意の上での朝鮮半島の支配」という主張と、

「李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった」という記述。

などは、同一の文章の中でどうにも矛盾するのではないかと思われる。