田母神問題 メモ1

秦郁彦発言(週刊新潮 2008/11/13)


(ネットで秦郁彦を検索すると、「秦邦彦」との誤記がゴロゴロ転がっている)

(週刊新潮(2008/11/13)に掲載された秦郁彦の発言については、「田母神サマは、他人のいってることを歪曲する 」の「週刊新潮11月13日号の秦郁彦サンによる田母神サマへの抗議 は次のようなものだ。」において要約が載っている。サクっと見たい方はそちらをご覧ください。

「たとえば張作霖爆殺事件は、関東軍の高級参謀・河本大作大佐によるものだったということが史実として確定しています」
「盧溝橋事件も、論文には劉少奇が外人記者との会見で『現地指揮官は自分だった』と証言したとあります。しかし、そんな会見は存在しません。東京裁判で旧陸軍関係者が”会見があったと聞いた”と語ったことがある程度の、単なる噂に過ぎないのです。会見が行われたとされる時期は国共内戦中で、中共蒋介石率いる国民党軍に首都・延安を追われ、幹部はみな山道を逃げているような時期でした。そんな時に会見など開けるわけがないでしょう」

ここで、「東京裁判で旧陸軍関係者が云々」とあるが、これは誰の事なのか。などについては、どうも
「盧溝橋事件 中国共産党陰謀説」
「タイプ1 <その3> 桂鎮雄氏の証言
桂鎮雄氏 『盧溝橋事件 真犯人は中共だ』 より」
が該当しているようだ。

頭が痛いのは、なにかネットの中では、秦郁彦の検証を無視して、桂鎮雄の論述が一人歩きを続けている。かのような印象を受ける。繰り返し繰り返しこのような言説が流され、その繰り返しの中で(誰が言ったか、であるとか、この中で語られている「記者会見」なるものが本当にあったのなら、その記事は残っているはずだろうが見当たらない。といったような当然の疑問であるとかといったような)ディテールがあいまいになりだんだんと、「語られたこと」(それこそ、「言論の自由」であって、どのような事であろうと語ること自体は問題はない、ただ、それを検証もせずに「事実である」と信じることと、その不確かな「確信」から何等かの行動を起こすとなると、これは大きな問題を引き起こす。行動を受ける方もいい迷惑だが、行動する者にとってはもっと不幸だ)自体に意味が付与されていく。つまり「一人歩き」が始まる。それがすでに始まっているように感じられる。

「私の著書『盧溝橋事件の研究』も論文には引用されています。が、そこで私は”事件の首謀者=中共”説をはっきり否定しているのです。当時、中国には国民党や共産党のほかに宋哲元率いる第29軍などの軍閥があり、日本軍を含めた4つの勢力それぞれについて首謀者だったとする説があるのは確か。しかし、私は著書で、事件の発端は第29軍の兵士が偶発的に撃った銃弾だった、と結論づけているんですよ。それを、私が中共派であるかのように書くのは心外です」

太平洋戦争がルーズベルト大統領の罠だったとする説についても、「学問的には、誰も認めていません」と一蹴する。
ルーズベルトが対日開戦の名分を得るため、真珠湾の太平洋艦隊を日本軍に叩かせて”リメンバー・パールハーバー”を演出したという説は時々現れますが、俗説中の俗説です」
コミンテルン謀略説など、
「日米戦争で漁夫の利を得るソ連の策略にルーズベルトが引っかかったという筋書きですが、”風が吹けば桶屋が儲かる”式の妄想を連ねた話です。そもそも田母神氏がコミンテルンのスパイとして名前を挙げたホワイトは当時、次官ではなく財務省の一部長に過ぎないし、ルーズベルトとハル国務長官がホワイトの関わった財務省案を参考にこそしても、ホワイトがハル・ノートを決めたなんて言い過ぎですよ」
いやはや、田母神氏が提示した新たな「史実」についてはほとんど全否定の趣なのだが(後略)


さすがの(?)週刊新潮も、論文自体については擁護のしようがないといった感じだな。

この記事には中西輝政も発言をしている。ちょっと面白いのでこれも引いておく。

東京裁判以降、日本の戦後史学は自虐史観と呼ぶべき硬直した解釈に囚われてきました。ですから、田母神さんのような方が正しい歴史認識を示されたのは、むしろ大変喜ぶべきことだと思っています」
「そもそも歴史観を述べたものであるはずの村山談話閣議決定することについては、法解釈上の疑問も残ります。政策を閣議決定して共有するのならわかりますが、ひとつの歴史解釈を政府の権力によって絶対のものとし、それ以外をダメだと決め付けてしまっていいのか。それに自社さ政権時にできた談話を、現在の自公政権も継承しなければならないと言うのは、奇妙な法理でもある。こういった流れが広がれば、一種の言論弾圧にも発展しかねません。公務員が村山談話に従わなければならないのなら、国立大学の教員である私など真っ先にクビではありませんか」

村山「トンちゃん」富市は学徒動員で従軍の経験がある。

その「村山談話」も「妄言」であるとか「硬直」であるとかといったような意見やらが散乱しているが、どの程度の人が本文に触れているのだろうか?もしも、これについて発言して、本文にまだ触れていないとしたらその人はちょっと考え方を見直してみる必要があるのではないかという気がする。
こちらに本文がある、そんなに長い文章ではないし、「談話」であって難解な文章でもない。この機会に一度目を通しておくといいだろう。

村山内閣総理大臣談話
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)平成7年8月15日


最後の言葉は「杖るは信に如くは莫し」
「よるは しんに しくは なし」と読み。
「頼りとするのは信義に勝るものはない」というような意味であります。


さて、自社さ政権時に立てられた「村山談話」の「歴史認識」を自公政権においても継承しなければならないとするのは、法理的に奇妙であるとの中西の立論だが、確かにこの「談話」をそのまま継承しているというのは奇妙かもしれない。実は、であるが故に、現在の自公政権において、総理に就任した者に対しては就任時の記者会見などでこの談話に対する態度を確認し、公にしているのだろう。つまり、政権が変化した現在において、現政権は確かにこの「談話」に拘束されない。それが為に現政権の個々の総理大臣に対して確認が取られ、個々の総理は自主的にこの「談話」に準ずると公言するわけである。(第170回国会 本会議議事録
これは、「踏み絵」とも取れるかもしれないが、外交の一貫性という観点からすると必要な措置なのだろう。(この「談話」が外務省のサイトに掲載されているのもそのような(つまり、国内的というよりもより、対外的に意味を持つ)背景から理解される)
つまり、現政権(麻生政権)下において、「談話」は閣内の統一認識であるということには法論理的になんら問題はないわけであり、逆に、現政権がこの「談話」から離脱すべきであると認識したのなら、それを公言すべきである。
麻生太郎個人が、この談話に対してどのような解釈を持とうとしても自由ではある。それこそ思想信条の自由である。しかし、総理大臣としての麻生太郎が、この「談話」を離れ、何等かの政策を行おうとするならば、その時にはこの「談話」に対する否定を公言しなければならない。これが法の論理というものであろうし、それ以前に「ヒトが他人に対して語った言葉に、どのような態度をとるべきか」という実に単純な倫理の問題だろう。

次に、中西は「公務員が村山談話に従わなければならないのなら、国立大学の教員である私など真っ先にクビではありませんか」と述べているが、大学というものと、自衛隊というものの性格をまったく無視した、それこそ「妄言」と言えるだろう。

そもそも大学と言うものは何のためにあるかと言えば「イノベーション」の為にあるのだろう。知を進め、この学、この文化、この社会、そしてこの国の在り方そのものを変えていくのが大学の本来の機能である。その為に大学は最大の自由と自治が認められるべきで、そこで思想信条の自由に拘束を加えると言うことは、この変革を抹殺すると言うことであり、大学そのものの価値をなくすことである。(まあ、そもそも、そのような高邁な理想から現実はあまりに遠いのだろうけれど)(この辺りの問題は、特に東京都立大学の問題とも関わっているけれども、結局、この社会にとって大学と言うのは高校の「次の学歴」という意味しか持っていないのだろう)

翻って、自衛隊と言うのは究極の「国家防衛装置」である。現行の社会、国家を墨守するのが自衛隊の役割であって、その機能分担を請け負う「制服組」は先に述べた「総理大臣としての麻生太郎」同様、厳しい束縛がかけられるだろう。
つまり、思想信条の自由は当然ある。しかしそれでも、それを表明する権利は著しい拘束の下におかれるのである。

例えばこう考えてみよう。実際に日本がどこかの国と交戦状態に入ってしまった。その時、最高責任者である総理なりの命令を「思想信条の自由」であるからと、制服組が受け入れなかったとしたら、もうこれは「組織」の体をなしてはいない。
「事件は会議室で起きているんじゃない」かもしれないが、戦争において会議室の意思を無視して、現場の勝手な判断だけを優先させれば、そんな組織が有機的に活動できるわけはない。
つまり、自衛隊員にも思想信条の自由はあり、それを表現する自由もある。などという考え方は「平和ボケ」以外のなにものでもなく。それを乗り越えて何かを述べたいのであれば、まず、組織から離れて述べるべきだろう。これが筋道だ。


この「自衛隊員の思想信条の自由」についてもうひとつ蛇足を加えるのなら。自衛隊員の合祀問題と言うのがある。

昭和57(オ)902「自衛隊らによる合祀手続の取消等」(昭和63年06月01日)
最高裁判所大法廷 判例集 (第42巻5号277頁)


ここに読みやすい感想がある。

この問題と、今回の田母神問題とを並べると、一部の人々のダブルスタンダードが見えて気分が悪くなる。