レイシズムの一例−蔑称としての「支那」

支那」という呼称を意識的に使用する人々がいる、その背景には拭いがたいレイシズムの思想と、歴史に対する無理解、または人間というものに対する無知が横たわっている。

「支那」の語源についての考察
(文字飾りはわたしが行った)

(略)
日本の社会が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意味を込めて称し始めたのは、中日甲午戦争で清が敗れた時からである。一八九五年、清政府は余儀なく日本政府を相手に、主権を喪失し国が恥辱をこうむる馬関条約(日本では下関条約と言われている)を締結して、近代中国のこうむった恥辱は極点に達した。昔から中国のことを「上国」として尊敬してきた日本人は最初は驚き、続いて勝ったあとの陶酔に走り、町に出てデモ行進を行い、「日本は勝った。『支那』は負けた」と狂気のように叫んだ。そのときから、「支那」という言葉は日本では戦敗者に対する戦勝者の軽蔑的感情と心理を帯びたものになり、中性的な言葉からさげすむ意味合いの言葉に逐次変わっていった。十九世紀から第一次世界大戦までのオランダの辞書の中では「支那」に対する解釈は「支那すなわち愚かな中国人・精神的におかしい中国人のことである」となっていた。西洋のその他の辞書では「支那」に対する解釈も大同小異であった。

日本などの外国が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意を込めて呼称することは海外に在住する華僑の間で強い反感を買った。一部の留学生と華僑は日本の新聞社に投書して、日本人が「支那」という言葉を今後使わないで、その変わり「中国」を用いるよう要求した。これによって、中国の国名の呼称をめぐる論争が引き起こされた。一九〇八年、インドネシア在住の華僑はインドネシアを統治していたオランダ植民地当局に抗議を提出し、「支那」という侮辱的な呼称に反対した。中日二十一カ条条約締結、パリ講和条約調印、「五四」運動以降、中国国内では「支那」という蔑称に抗議するより激しいキャンペーンが巻き起こされた。辛亥革命後、中国政府は日本政府に照会し、中国を「支那」と呼ばないよう要求したが、日本側は拒否した。一九三〇年に、当時の中華民国中央政治会議では決議が採択され、当時の中国の国民政府外交部は日本政府に覚書を送った。決議にはこう述べられている。「中国政府中央政治会議は、日本政府とその国民が『支那』という言葉で中国を呼称し、そして日本政府の中国政府に宛てた公式公文にも中国が『大支那共和国』と呼称されているが、『支那』という言葉の意味はたいへん不明確で現在の中国となんらの関係もないため、今後『中国』を呼称する場合、その英語では必ずNational Republic of Chinaと書き、中国語では必ず大中華民国と書かなければならないことを外交部がすみやかに日本政府に要求するよう促す。もしも日本側の公文に『支那』いう文字を使われたなら、中国外交部は断然その受領を拒否することができる」。一九三〇年末から、日本政府の公文は全部「支那共和国」を「中華民国」に改められたが、社会一般の書面用語や話し言葉では依然として中国が「支那」と軽蔑的に呼称され、中国侵略の日本軍が「支那派遣軍」と称され、中国人が「支那人」と呼ばれていた。第二次世界大戦終結後、中国は戦勝国として代表団を東京に派遣し、一九四六年六月「命令」の形で日本の外務省に今後は「支那」という呼称を使ってはならないと通達した。同年六月六日、日本外務次官は各新聞社、出版社に、日本文部次官は七月三日各大学の学長宛に、「支那」という名称の使用を避けるようにという内容の公式公文を前後して配った。

戦後、特に新中国建国以後、「支那」は次第に死語となり、用いられなくなった。しかし、日本の社会において、今でもごく少数の右翼分子は依然として故意に中国を「支那」と呼び、ごく少数のものは飲食店のおそばのことを「支那ソバ」と言っている。日本で出版されている一部の地図にも中国の東中国海を「東シナ海」(「支那」の二文字を片仮名に変えただけ)と称していて、広範な華僑同胞の反感を買った。東京で料理店を経営しているある華僑は「支那」という呼称をなくすよう、数十年もたゆまぬ抗争を続けている。この華僑はお店のマッチ箱や箸袋に悲憤をこめて、謹しんで申し上げる、と次のように書き入れている。「……日本の人が中国を『支那』と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。……」と。ある人は怒りをこめて、中国を「支那」と呼ぶことは以前西洋人が日本人のことを「ジャップ」と呼び、東方の人たちが日本を「倭」と呼ぶのと同じではないか、どうして中国人民の感情を尊重しないのか、とただした。

日本では、孫文もかつて「支那」という呼称を使ったことがあるではないかと弁解する人もいる。孫文は一八九九年、一九〇三年の少数の場合に確かに「支那」という言葉を使ったことがある。当時は「支那」という言葉がさげすむ意味へと変わる初期にあったことも理由の一つとしてあげられよう。一九〇五年以後、「支那」のさげすむ意味が逐次濃厚になり、そのときから孫文は二度と「支那」を使わなくなり、そのかわり「中国」を用いるようになった。もう一つの理由は、孫文は革命者として、「支那」は清王朝と等しいと考え、「中国」はその革命を進めて樹立をめざす中華民国であり、中華民国の建国以前「支那」と呼称したのは清王朝を指すものであって、辛亥革命後、「中国」と改称した。
(略)

所謂「言葉狩り」といわれるものは、現代においてネガティブに捉えられている。勿論、どのような言語表現も「言論の自由」「思想の自由」の名の下に許容されるべきであろう。しかし、「言論の自由」「思想の自由」の名の下に為された「自由な行動」は、また「言論」「思想」の下での批判を受けねばならない。
その時、その「言論」「思想」はどのようなものであるか判断される。
言論の自由」「思想の自由」とはこのように個々人に担保されてなされるべきもので、どこまでもイノセントなものとして扱われるわけではない。
支那」という表現を行うことは自由であろう、しかし、その表現を行うものがどのような「思想」の下にいるかは評価されるものである。

そもそもこの「言葉狩り」という言葉が広く使われた契機としては「筒井康孝の断筆宣言」という騒ぎが挙げられるだろう。しかし、あの文脈においても筒井康孝は「てんかん」者に対して蔑視していたわけではなく、また、一方の当事者である「てんかん協会」も「てんかん罹患者の運転免許」について活動を続けている。
あの騒動が、それまで持たれていた「てんかん罹患者は車を運転できない」というある種の誤解と偏見を和らげたという意味はあるだろう。
筒井康孝が「てんかん」という言葉を使ったことで*1誤解と偏見が緩やかではあるが緩和されたという効果はあったかもしれない。

つまり、筒井康孝が「てんかん」という言葉を「言論の自由」「思想の自由」の下で使用したときに、その「言論の自由」「思想の自由」を「言論」「思想」の下で再評価を行う、その作業によって社会の捉える「てんかん」という言語の意味がひとつ深まり、「てんかん」という言葉自体もひとつの自由を得たといえるだろう。

では「支那」という言葉は如何だろうか。

上記のように、「支那」という言葉は「支那派遣軍」という名でなした日本の侵略の象徴であり、被侵略民が「日本の人が中国を『支那』と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。」と語ることは十分理解できるものだろう。
果たして「支那」という用語を使用するものたちは、彼ら被侵略民の持つ感覚、感情、そして思想に応えているだろうか。
支那」使用者が「蔑視しているわけではない」と幾ら言い募ろうと、言われている対象者がいる以上、その対象者を忖度できないとすれば、それは「表現」とはいえない。思想において開かれているとはいえないだろう。

逆に、「支那」という言葉を使うとき、その使用者はこの言葉にまといつく歴史的背景を無視するだけでなく、あたかも、その歴史的事実すら思考の外に弾き出そうとしているかのように見える。
例えば、「従軍慰安婦」の存在はどうか。「従軍慰安婦」が軍部の指示で行われたかは不明かもしれない。つまり日本が国家で「従軍慰安婦」を制度化したわけではないのかもしれない。しかし、今日的に「ジャパゆき」と呼ばれる人々が現に存在し、フィリピンなどの東南アジア、はてはルーマニアなどの旧東欧諸国からも集散し、現地の人々に「日本」がどのように見られているかは容易に想像がつくだろう。
国家賠償に対する制度的な問題はさておいても、その存在が或いは恥ずべき物として慎重に捉えられるべきものを、あたかも何も無かったと言い募る姿は恥知らずと断じられても致し方がないだろう。
また、「南京大虐殺」についても、そこで何等かの大量殺人が行われたことは疑いを入れない。


(まだ続く)

*1:彼が積極的に意図したわけではないが