「人種差別主義(レイシズム)とはなにか」ノート

レイシズム (思考のフロンティア)

レイシズム (思考のフロンティア)

「人種差別主義(レイシズム)とはなにか」ノート


岩波書店 思考のフロンティア
レイシズム」 著者:小森陽一


目次
  はじめに
Ⅰ「人種差別主義(レイシズム)」とはなにか
 1「差異」が「差別」に転換するシステム
 2「異質性嫌悪」発生の回路
 3言語が形づくる「アイデンティティー」
Ⅱ言語と差別
 1子供の言語習得過程と差別
 2言語システムと差別のメカニズム
 3『オリエンタリズム』にみる主体と客体の「非対称性」
Ⅲ人種差別主義の言説
 1「大日本帝国」への自己オリエンタリズム
 2<われわれ>=<かれら>という転倒
 3「ミュッセの詩」が象徴するアイロニー
Ⅳ基本文献案内
  あとがき



「Ⅰ「人種差別主義(レイシズム)」とはなにか」の小見出し

1「差異」が「差別」に転換するシステム
 「生物学的」差別の後に
 狭義の人種差別
 差異の価値づけ
 一般化と全体化
 差別する側の暴力性
 自己正当化と思考停止
 存続論的な還元
 特権の擁護と暴力の記憶
 不在の優越性への欲望
 罪悪感と罪障感
 同等性と優越性
 擬似論理としての差別

2「異質性嫌悪」発生の回路
 恐怖と暴力
 暴力を制御する言葉の力
 攻撃と逃亡のエコノミー
 記号的世界の発生

3言語が形づくる「アイデンティティー」
 植民地主義と「人種」概念
 アイデンティティーという用語
 自らを根こそぎにした人々
 代替的な拠り所
 暴力の記憶を消す「アイデンティティー」の概念



「Ⅰ「人種差別主義(レイシズム)」とはなにか」ノート
要約ではなく、単なるメモである。

「生物学的」差別の後に

アルベール・メンミがあえて「生物学的」な「人種差別主義」に一切言及せずに「人種差別主義」を定義した。

狭義の人種差別

差異の価値づけ

他者の側に見出した自己との違いを否定的なものとして意味づけ、
それと対比的に発見された自己の特徴をひたすら肯定的に描き出す。

一般化と全体化

差異の拡大

これまで見出されてきた同じ人間としての「差異」を、
被差別者を非人間化するための道具に転換する。

差別する側の暴力性

「人種差別主義」者は、侵略者としてその地域の人々を抹殺すると同時に奴隷化していった。
あるいは自分たちの地域に流入してきた他者を暴力的に排除し囲い込もうとしてきた。

人種差別主義者は、初めから本質的に不当な暴力的かかわり方をしてきたことを半ば自覚している。しかし、その自らの暴力が不当だ、ということを認めたくない。

もし、自らの暴力の不当性を認めるのであれば、そこを出発点として、暴力の被害者である他者に対し、自分の側の加害の責任を認め、謝罪し、和解の道を切り拓くことが可能になる。しかし、自らの暴力の不当性を認めず、その不当性を半ば自覚しつつも自己正当化をしようとするとき、本来被害者であるはずの他者に対し、逆に過剰な攻撃性が発動されることになるのである。なぜなら、相手である他者の側に、落ち度や欠陥といった不当性があることを強調することでしか、自らの存在しない不当性を言いつのることができないからである。


自己正当化と思考停止

一つの地域や社会の中で、すでに暴力と排除の犠牲者となり、不当な処罰や制裁がなされた者たちに対して、
あらためて、あらたな処罰と制裁を加えることを正当化するために、「人種差別主義」の論理が組み立てられる。

あたかもそれが必然であったかのように説明しようとする。
説明の反復によって言説から論理性が消去され、紋切り型の表現になったとき、差別する側の自己正当化が完成する。

被差別者に対する不当な処罰や制裁の歴史的な始まりにたいして、思考停止することでしか差別者のすでにある様々な既得権を正当化して守ることはできない。

歴史的な経緯と因果関係に対する思考停止は、既得権をもった社会集団全体に共有されている欲望を充足する機能を持つ。


存続論的な還元

歴史認識と責任の否認の上に構築される「人種差別主義」の論理は、すでに存在している不正を正当化することをとおして、犠牲者としての被差別者が処罰や制裁を受けつづけていることが、まるで当然であるかのように説明することを可能にする。この段階で、犠牲者としての被差別者は、すでに処罰や制裁を受けつづけている者としてだけでなく、常に処罰や制裁を受けている者として描き出されていくことになる。

つまり、女性が社会の中で苦しんだり、出産の際に痛みを経験するのは、そもそも女性がそのような存在だから。

あるいは、黒人が奴隷にされたのも、そもそも暗黒大陸アフリカに生れたという事実が、呪われた*1存在であることを規定していたからだ。という具合にである。

このように、存在論的に還元することによって、歴史的に規定された差別の構造が、その歴史性を消去され、すでにそこにあることは常にあることだという形で、一般化、全体化、普遍化されていくのである。

犠牲者としての被差別者が、すでに、そして常に不幸な生活をしなければならないことが、必然的で客観的条件であったかのように描き出すことに成功したとき、「人種差別主義」は、それとして出来上がるのである。なぜなら、この段階において、「告発者」であるところの差別する側は、すでにそして常に正当な裁定者であるという特権を手にすることになるからだ。*2


特権の擁護と暴力の記憶

もしある人間が、自分の現在有している諸権利について、それが正当なものであることに自信をもち、何ら疑念を抱いていないとすれば、その人には「人種差別主義」は必要ない。なぜなら、その人は自己正当化する必要性を感じていないから。

「人種差別主義」が発生する条件は、ある人々が有している特権としての既得権を擁護しようとする際に生じる。

特権は、特定の身分や階級に属する者に特別に与えられた、他の人々とは異なった優越的な権利のことである。

したがって特権とは、ある地域や社会の中で特定の人たちだけに認められたその人たち以外の人々を排除した権利のことにほかならない。

歴史的に見れば、特権階級といわれる人たちの多くは、その優越性や支配権を有するに至る過程で、戦争をはじめとする不当な暴力を行使している。その不当で不正な暴力の記憶は、その暴力を行使した相手、他者からの報復の恐怖として潜在化する。*3


不在の優越性への欲望

恐怖に基づく他者を排除しようとする欲望は、前段階では防衛的な攻撃であったとしても、いったん攻撃が開始されれば、恐怖はその攻撃に比例して拡大していかざるをえない。そのとき、攻撃のための攻撃、自己防衛の正当生など一切存在しない攻撃が全面化し、かつ野放しになる。*4

自らの特権をめぐって、不正の意識、それに伴う罪悪感や罪障感があるからこそ自己正当化をはかろうとするのである。この自己正当化のために「人種差別主義者」の論理が必要となる。しかし、不当な罪を犯したうえで獲得した特権を擁護しようとするのだから、当然そこにはきわめて狡猾な自己欺瞞が導入せざるをえなくなるのだ。

ある社会や地域で特権を有していることは、その者にとっては支配している犠牲者との間に社会的な序列に基づく優越性を持っているかのような錯覚を生み出す。つまり、あたかも個人としての自己に内在的に優越性があるかのような錯覚を抱くのである。

少しでも合理的な思考を継続すれば、自分が植民地の先住者*5に対して何らかの優越性を個人のレベルで持っているなどという客観的根拠が存在しないことにただちに気がつくはずなのだ。しかし、「人種差別主義」の論理で武装することによって、そのささやかな合理的思考を停止させ、自らが植民者であり、宗主国人であるという一点に原理的には不在な自己の優越性の根拠を求めようとするために、かえって「人種差別主義」が強化されるという循環が形成される。


罪悪感と罪障感

「人種差別主義」がきわめてやっかいな擬似論理であるのは、それが単純な人間の悪意に根ざしているのではなく、自分の行為の善悪を判断し、その行為の代償への影響をも内省でき、他者に対して不正な行為(とりわけ暴力的な行為)をはたらいてしまった自己に対して、罪の意識を持つ、といういわゆる「良心」の機能と隣接した心性としてはたらいているからなのだ。つまり反省能力を保持している、その意味で「良心」的人間が、反省能力によって気づいてしまった自分の罪を、罪を犯したと知りながらなんとかして自己正当化をはかり、その罪の意識から逃れ、忘却して楽になりたい、という屈折した心性が擬似論理としての「人種差別主義」を人に欲望させる。という関係がやっかいなのである。


同等性と優越性

先住者は狩猟採集生活をしていたのであって、土地を所有し、より文明的な農業をはじめたのは自分だ。

かかわりのはじまりにおいては、自己は他者をとりあえず自分と同等な存在として認知していたはずなのだ。
そこから差異を発見していくという行為が<負い目>という優越性をおびやかす劣等性の感覚を背負いこむ要因となり、それを否認して自らの優越性を無理矢理に取り戻そうとするために、過剰なまでに他者の劣等性を強調する攻撃的な「人種差別主義」的言説が生み出されることになる。


擬似論理としての差別

「人種差別主義」が論理として構築されているのであれば、その論点の一つひとつを論破することによって解体することができたはずだ。けれども「人種差別主義」は擬似論理であると同時に、経験的な世界における差異の認知を利用しながら、潜在的罪障感に対する自己正当化のために機能し、気分、感情のレベルで作動しているために、やっかいなのである。

「生物学」的な「人種差別主義」の論拠が20世紀後半において、ほぼすべて論破されたはずであるにもかかわらず「新しい人種差別主義」と言わざるをえないような、気分、感情に21世紀に生きる多くの人々がとらわれ、かつ、その気分、感情が強化されてしまっている現状があるのは、擬似論理による非論理的な感情領域への働きかけが、いかに強く、かつ根深いものであるのか示している。


*1:「呪われた」、という言葉に対比される、昨今はやりの言葉を連想した、その言葉とは「セレブ」。個人的な感覚から言えば、この言葉こそ「呪われてしかるべき」であるかのように思われる

*2:1「愛国者」が「国を愛する理由」として挙げる論理の一つに「この豊かな国に生れたことを感謝するべきだ」というようなものがある。この論理では「では、豊かでない国に生れたものの困窮」への同情の回路は遮断される。貧しい国に生れたものの困窮は、貧しい国に生れたからだ。というような身も蓋もない普遍化に回収され、思考はここで停止される。あるは、その困窮が自分たちのもたらしたものであるかもしれないという内省。または、貧しい国に生れた彼らも同じ人間として「人権」を持っているはずではないか、といような当然の同情。更に言えば、今は自らとは関係ないとみなしている彼らを取り巻く環境が、この先この国に訪れ、彼らの困難を自らの身で受けるかもしれない。というような可能性に思考が開かれていかない。

*3:ここでわたしは、天皇を頂点とする朝廷と、菅原道真の関係を連想する。不遇な待遇(この奥ゆかしい表現)に陥れた菅原道真の存在を、天皇及びその尊属(藤原氏)は恐れ、その恐れが道真を「天神」として「神」に祭上げる要因となった。「特権」を得る為の闘争と、そこで為される暴力、そしてその後の「贖罪」を「神」概念に求めるメカニズム。ここに日本という文化の一つの問題があるように思われる。 このメカニズムには、加害者側の贖罪が一方的になされ、それが被害者へ届くことを予期していない。為政者は被害者を「同質化」させ取りこみ、被害者(または、その子孫)を加害者と同質の位置に置こうとする。やがて被害者(または、その子孫)を加害者とともに「神」概念を通して祭上げ、和解を図り、贖罪は完成される。(←ここ説明不足) 被害者と加害者の同質化が完成できればこのメカニズムは問題なく作動する。日本という国においては、あるいはこのメカニズムは安全に作動していたのかもしれない、しかし、このメカニズムを同質化しえなかった韓国であるとか中国に適応しようとしたところ、この国は戸惑うしかなくなったのではないだろうか。←このあたり、もう少し説明が必要になるだろうなぁ

*4:一般的に歴史上、どのような「侵略戦争」であっても、その緒戦では「防衛の為の戦争」の体裁をもつ

*5:このセンテンスの前に、植民地の事例が展開される