「永遠のファシズム」ノート
ウンベルト・エーコの「永遠のファシズム」からファシズムの特徴(「原ファシズム」)として挙げられている14項目をメモとして抽出してみる。
- 作者: ウンベルト・エーコ,和田忠彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/10/28
- メディア: 単行本
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「永遠のファシズム」ウンベルト・エーコ/和田忠彦 訳
Umberto Eco "CINQUE SCRITTI MORALI"
以下は引用ではなく、大意の要約である。正確を期するには各センテンスの前に掲げた括弧内の数字がおおよその該当箇所なので参照されたい。
(p.38)
ファシズムは確かに独裁体制ではあったが、その穏健さからいっても、またイデオロギーの思想的脆弱性からいっても完全に全体主義ではなかった。
一般に考えられているのとは反対に、イタリア・ファシズムは固有の哲学を持っていなかった。
「ムッソリーニにはいかなる哲学もありませんでした、あったのは修辞だけです」
「絶対的倫理国家」という後期ヘーゲル的概念は、しかし、ムッソリーニがついに完璧に実現することのなかったものです。
(p.40)
ファシズムにはいかなる精髄もなく、単独の本質さえない。ファシズムは<ファジー>な全体主義であった。
ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体であった。
君主制と革命、国王の軍隊とムッソリーニの私兵、
教会に与えられた特権と暴力を奨励する国家教育、
絶対的統制と自由市場。これらが共存可能な全体主義運動、それがファシズムであった。
(p.43)
こうした事態が生じたのは、なにもファシスト党の幹部たちが寛容だったからではなく、統制に必要な知的手段の持ち合わせが皆無に近かったからにすぎない。
ファシズムの典型的特長を列挙することができる。そうした特徴を備えたものを「原ファシズム(Ur-Fascicmo)」「永遠のファシズム(Fascismo etermo)」と呼ぼう。
それらの特徴はひとつのシステムの中に整然と組織されるものではない。
その多くが互いに矛盾しつつも存在する事が、独裁体制や狂信主義における典型的な特徴となる。
ファシズムを判定する際には、これらの中でひとつでも特徴の存在が確認できれば事足りる。
1.伝統崇拝
さまざまな宗教において次のような妄想が根付いている。「人類の歴史の黎明期にすでに啓示を受けている」「知の発展はありえない」
真実はそれらのなかに、すでに紛れようもないかたちで告げられている。
わたしたちにできることは、その謎めいたメッセージを解釈しつづけることだけだ。
あるときは社会の現体制を否定する知見を拒絶する方便としても使われる。
つまり、ファシズムとは保守主義であり、モダニズムの拒絶に通じる。
2.モダニズムの拒絶
啓蒙主義や理性の時代は、近代の堕落のはじまりとみなされる。
この意味において、「原ファシズム」は「非合理的」である。
3.行動主義/非合理主義
(これが、ファシズム自体が論理的に相異なる要素を包括できる理由)
非合理主義は<行動のための行動>を崇拝する。
行動はそれ自体すばらしいものであり、それゆえ事前にいかなる反省もなしに実行されなければならない。
思考は去勢の一形態であるとみなされる。
<文化>は批判的態度と同一視される<いかがわしい>ものとみなされる。
「<文化>と聞いたとたん、わたしは拳銃を抜く」とはゲッペルスの言葉として伝えられている。知的世界にたいする猜疑心は、いつも「原ファシズム」特有の特徴であり、ファシスト幹部知識人たちは、伝統的諸価値を廃棄した自由主義的インテリゲンツァと近代文化を告発することにことさら精力を傾けてきた。
4.混合主義〜批判を受け付けない
混合主義というものは、批判を受け入れることができない(矛盾が露になってしまう)
批判精神は「区別」を生じさせる。そして「区別」とは近代性のしるし。
近代の文化において科学的共同体は、知識の発展の手段として、対立する意見に耳を貸すことを覚えた。しかし「原ファシズム」にとって意見の対立は裏切り行為となる。
5.異質性の排除
(余所者排斥−人種差別)
意見の対立はさらに異質性のしるしでもある。
「原ファシズム」はひとが生まれつきもつ<差異の恐怖>を巧みに利用し増幅することによって、合意をもとめ拡充する。
ファシズム運動、もしくはその前段階的運動が最初に掲げるスローガンは「余所者排除」であり、「原ファシズム」は明確に人種差別的である。
6.ルサンチマンとの結合
(個人もしくは社会の欲求不満から発生している)
なんらかの経済的危機や政治的屈辱に不快感を覚え、下層社会集団の圧力(それが実在するか否かは関係がない)に脅かされた結果。欲求不満に陥った中間階級への呼びかけに呼応して力を持つのがファシズムである。
かつての「プロレタリアート」が小市民(プチブル)になりつつあり、しかも「ルンペンプロレタリアート」がみずから政治の舞台から身を退いた現代において、ファシズムが聴衆としてたのむのはこの新しい多数派なのである。
7.ナショナリズム/「陰謀」の妄想を抱え込んでいる
いかなる社会的アイデンティティももたない人々に対し「原ファシズム」は諸君にとっての唯一の特徴は、全員にとって最大の共通項、つまりわれわれが同じ国に生まれたという事実だと語りかける。
これが「ナショナリズム」の起源となる。
さらに、「国家にアイデンティティを提供しうる比類なき者たち」は「敵」と目されるようになる。
「国家にアイデンティティを提供しうる比類なき者たち」=「国家をコントロールできる、しようとするものたち」
例えば、「日教組」「北朝鮮工作員」
こうして、「原ファシズム」はその心性の根源に<陰謀の妄想>を抱え込んでいる。
8.「敵」に対する見積もりのゆらぎ
信奉者は、敵のこれ見よがしの豊かさや、力に屈辱を覚える。それでも信奉者は敵を打ち負かすことができるのだと思い込まなければならない。こうしてレトリックの調子を変えることで「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」
さまざまなファシズムがきまって戦争に敗北する運命にあるのは、敵の力を客観的に把握する能力が体質的に欠如している。
「果たして、日教組は日本の教育を骨抜きにして、子供たちをバカにするほどの力があるのか、それとも、国旗・国歌の校内における扱いにもてこずるほど組織が弱体化しているのか」
「北朝鮮は餓死者続出の収容所半島なのか、明日にも核ミサイルを日本に打ち込み攻め込んでくる軍事大国なのか」
9.「生が永久闘争」
「原ファシズム」にとって「生のための闘争」は存在しない。あるのは「闘争のための生」である。「平和主義とは敵との馴れ合いで」あり平和主義は悪とされる。
やがて、ハルマゲドンの機構を生み。
敵は根絶やしにすべきものとなり、
こうした<最終解決>の後には平和な時代が到来することが前提されている。
しかし、この黄金時代は永久戦争の原理とは矛盾する。ファシズムの指導者は誰一人としてこの矛盾を解決できない。
日本が対米開戦に向かった理由。
ヒトラーが対ソ戦を開いた理由がここにある。
10.大衆エリート主義〜階級主義
指導者は、自分の権力が委託されたものではなく、力で獲得されたものであるとみなす。
集団は階級制度に従って組織され、下位の指導者は自分の部下たちを蔑み、その部下たちはさらに下級の人々を蔑む。
こうして大衆エリート主義が強固となる。
11.英雄主義
「一人一人が英雄となるべく教育される」ことになる。
この「英雄崇拝」は「死の崇拝」と緊密に結びついている。
死こそ英雄的人生に対する最高の恩賞であると告げられ、死に憧れる。
「靖国的死生観」または、「イスラム原理主義における自爆テロ」
12.マチズモ
永久戦争にせよ、英雄主義にせよ、それは現実には困難な遊戯である。「原ファシズム」は、その潜在的意思を性の問題に摩り替える。これが<マチズモ>(女性蔑視や、純潔から同性愛にいたる非画一的な性習慣に対する偏狭な断罪)の起源となる。
しかし、性もまた困難な遊戯にちがいない。「原ファシズム」の英雄は男根の<代償>として、武器と戯れるようになる。戦争ごっこは、永久の<男根願望>に起因する。
13.質的ポピュリズム
「原ファシズム」は「質的ポピュリズム」に根ざしている。
民主主義の社会では、市民は個人の権利を享受しつつ、市民全体としては(多数意見に従うという)量的観点からのみ政治的決着能力をもっている。
「原ファシズム」にとって、個人は個人として権利を持たない。
量として認識される「民衆」こそが結束した集合体として「共通の意思」を表す。
人間存在をどのように量としてとらえたところで、それが共通意思をもつことなどありえない。
指導者は、かれらの通訳を装う。
委託権を失った市民は行動に出ることもなく<全体をあらわす一部>として駆り出され、民衆の役割を演じるだけ。
こうして民衆は演劇的機能にすぎないものとなる。
わたしたちの未来には<テレビやインターネットによる質的民主主義>への道のりが開けている。
選ばれた市民集団の感情的反応が「民衆の声」として表明され、受け入れられるという事態が起こりうる。
(まるで、某巨大掲示板を起点とする「世論」のよう)
「質的民主主義」を理由に「原ファシズム」は「腐りきった議会政治」に叛旗を翻すかもしれない。
議会がもはや「民衆の声」を代弁していないことを理由に、政治家自身がその合法性に疑問を投げかける時、そこには必ず、「原ファシズム」の匂いがする。
14.「新言語」の使用
「新言語」という言葉は「1984」のなかでオーウェルが創作したイングソック(INGSOC イギリス社会主義)の公用語。
ナチスやファシズムの学校用教科書は例外なく貧弱な語彙と平易な構文を基本に捉えることで、総合的で批判的な思考の道具を制限しようと目論んだ。
しかし、わたしたちはそれとは異なるかたちをとっているときにも、それが「新言語」であることにすぐさま気が付かねばならない。例えばそれが大衆トークショーといった罪のないかたちをとっていることだってある。
では、何故「ファシズム」ではいけないのか。
ファシズムは甘美な罠である。
そこへは容易に辿りつきやすく、どこへも至らない。
政治思想における袋小路であり、
社会の注意すべき陥穽である。
一つの思想、集団がファシズムの彩りを帯びはじめたら、
急いでそこから踵を返すべきだ。