<何か>が「足りない」ひとびと

半年後といわず、次の日にでも更新したかったのだが、今日になってしまった。

秋篠宮家に「後継ぎ」が生まれたことで「皇室典範問題」は先送りになりそうな気配なんだが、この「皇室典範問題」とやらで「男子継承」だの「女帝論」だの、「DNA」まで持ち出して議論ともいえない議論がかまびすしかった。

わたしが何故この議論を「議論ともいえない」と断じるか。その理由は彼等論者の論理性の欠如が甚だしいからに他ならない。そもそも天皇皇位継承を論じようとするならば「天皇とは何か」という事柄に同意がなければ議論など成り立たない。それぞれが議論の土台を異にしたまま、それぞれの信じるところ(つまりは主観)を振り回す行為など議論とは言えない。

明治からこっち、「天皇とは何か」という問題は繰り返しこの日本という社会を覆った。激しくは「国体明徴運動」という形で、一方の議論を焚書するまでの盛り上がりを見せ、やがてこの熱狂は「統帥権」という聖域を作り、この日本を破滅の縁にまで追いやった。

ポツダム宣言受託前だかその後だか忘れたが、前の戦争で日本が連合国に「無条件降伏」を呑む時の<条件>に「国体護持」があった。この時、連合国側が「では国体とは何か」と尋ねると、日本側は明確に応えられなかったそうだ。連合国側も呆れた事だろう。

結局、この問題は「玉虫色」の解決を見る。連合国側からは、憲法を改正し、天皇制を政治から切り離す事で「国体」の解体が出来たかに見えるし、日本国内からは天皇制を「象徴」として存続させ、戦争責任についても波及させない事で「国体」の護持が出来たかに見える。

戦後も折りあるごとに「国体」であったり、「天皇制」の問題は議論の俎上にのぼるが、結局のところ結論を見ていない。

このように、結論されていない「天皇制」の継承問題を議論したところで結論が得られないのは至極当然の話でしかない。その議論に血道をあげるのは労力の無駄でしかなく、そもそも<何か>が「足りない」と断じるに十分だろう。

さて、ここからはわたしの持つ印象なんだが。この議論に血道を上げていた人々というのは、「憲法改正議論」においても熱心であったように感ずる。特に、一所懸命「憲法改正を誇りの持てる日本を!」とか言っていた人達が「男系だ!」「いや、女系にも道を」とか言っていたり、「秋篠宮様おめでとう」とか言っているように思える。

ところで、そういう人達は現行憲法が何を真っ先に定義しようとしているか認識しているのだろうか。<何か>が「足りない」ので認識していないかもしれないが、現行憲法が真っ先に定義しようとしているものこそ「天皇制」に他ならない。

一世紀以上にわたって「天皇制」を「議論」し続け、結論を得られない人々が、それを含む「憲法」全体を改正などできるだろうか。

<何か>が「足りない」ように思えて笑いがこみ上げてくる。

この問題が「非対称」とどのように関わりあうか。また、その「非対称」の来し方行く末については、半年後かもしれない次の機会に譲りたい。