自分が知ることのできないもの―他者

「恋愛資本主義」へ、ようこそ(ゾゾコラム)

電波男」が形を変えた「恋愛至上主義」であるという指摘と、「負け犬女」「だめんず・うぉ〜か〜」「バブル女」「DQN男」やらなにやらも(補足すると、「ニキータ」とか「純愛」も)、結局「電波男」の指摘する「自己充足指向の恋愛至上主義」である。って指摘なんだろうね。

話は突然変わりますが。ジェンフリ辺りの話題で「水子」ってキーワードに引っかかって。

誕生前の「死」?
女性の権利と仏教的生命倫理−「水子供養」との関連で−
仕組まれた「水子信仰」のルーツと展開

Yahoo!ショッピング【金彩香合仏】水子地蔵尊

なんぞをつらつら見てみたんだけど。

結局、「この世」をコントローラブルなものとしたいって事なんじゃないかなと思える。自分の意のままにならなければ恋愛から降りる、二次元に(または意のままになる何者かに)対象を求める。
また、産む産まないを自分のコントロールの範疇に収める(これには、「産ませる」という男性と女性との関係があるのだけど)。更にその「水子」の存在を自己のコントロールの下に置いておきたいという意思としての「水子供養

自分ではどうしようもない、コントロール不能のものがある。それが他者であり、更に言えば、自分の中にあるように見えてエロスは自己のコントロールを離れている。離れているからエロスである。
この自分ではどうしようもない他者との付き合い方が下手というか、他者との接し方のスキルが欠落しているというか。
扉の向こうから突然やってくる「運命」なりなんなりに自分が翻弄される。そういった翻弄の中で如何に自分であるか。という事が「自我」なんだろうなって気がするんだけど。そんな翻弄に身を任せると「ナニモナクナッテシマウ」から外部をコントロールしなければならないってことなんだろうか。