これがあれを滅ぼす

dokusha2005-05-15


ユリイカトークイベントの件で。
燃えたなあ(栗原裕一郎:2005-05-15)

混ぜっ返すということではなく、キッチリ批判を受けとめて、それを土台にナニカを築き上げようとしている姿勢が伺える。その叩き上げた土台をちょっと盗用させてもらって考えてみると。

ばるぼら本についての「文学」を補足するかたちで、ユリイカ編集長は、ヴィクトル・ユーゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』の「これがあれを滅ぼすであろう」というフレーズを援用した。
ニーツオルグさやわか氏はこの発言を、おそらく、これ=インターネット、あれ=文学(ないし活字文化)と捉えていたと思われるが(「これがあれを滅ぼす」という内容が、つまり、新しいコレがスゴいんだ! ほかを席巻する! って内容が、なぜできなかったんだろうって郡さんに問われたときに、出演者は何も答えられなかったわけで」「ありふれた事件 #148」)、それはユリイカ編集長の意図とはまるっきり逆だった。何しろ彼はネットへの露出をかたくなに固辞するほどに活字サイドの人間であり、事後わかったことだが、彼は、インターネットの歴史というものを一冊の書物に封じ込めることを指して「文学」といっていたのだ。

何かの事象を紙にでもネットのコンテンツにでも、そして文章としてでも音楽としてでも、或いは絵画としてでも定着させるという行為事態が「あれを滅ぼす」といえるのではないのかな。「ばるぼら本」は、それは凄いものだけれど、すべてを盛り込むなどということはできるわけがない。しかし、すべての中から「ばるぼら」が掬い上げてみせる事で、逆に「あれ」を明瞭に浮き出させて見せてくれているのではないのだろうか。

つまり、すべての表現活動である「これ」は、その対象である「あれ」を紙または何等かのメディアに定着させることで「滅ぼす」。それが「文学」なんじゃないんだろうかな?

そうなると、三層の人々云々というのは当たらないと思える。
ネットのコンテンツ、そこでの事象が紙に定着させられ、その紙に切り取られた事象と表現が、そしてそこに盛り込まれた作者の人格の一部が、またネットのコンテンツとして流通させられる。紙とネットというメディアの相違は本質的な差異でも境界でもないだろうし、そのようなものであってはいけない。
相互の表現―批判―クリティックの交換作業が必要なのではないかと思える。そして、件のイベントでもそのような交歓が為されることが期待されていたのではないのかと思えるのだ。

…なんてな。