以上のことから

まず、そもそもなぜわたしは「スウェーデン犯罪大国論」に疑問を持ったか。
なぜなら、犯罪の発生率と家族制度の崩壊が易々と関連付けられるとは思えない。
家族制度などというものは各国家、各民族が、それぞれの歴史、宗教、文化を背景に形作るものであって、そのありようが単純な比較になじむとは思えないし、犯罪の発生率についても同様に様々安背景要因が考えられる。これら複雑な背景を持つものの関連性を立証するのは容易なことではないだろう。

上記のように、「スウェーデン犯罪大国論」は充分に疑わしい。もっとも顕著な事例はポピュラーな犯罪である「窃盗」の「件数」であって、これは日本が逆転している。また、この「件数」も「発生件数」であるとは断じることができない。

確かに「優性保護」ともいえる非人道的な事例以降、スウェーデンの神話は崩れているのかもしれない。また、高福祉高負担の社会民主主義的な選択はわたしの価値観とは相容れない(相容れないんだよ)。けれども、いやしくも一国を「犯罪大国」呼ばわりするに当たっては慎重な検討が必要となるだろう。社会において責任と品位を保つべき者がこの単純な常識をかなぐり捨ててよいわけがない(と、常識も品位もない匿名投稿者から指摘されてどうするんだろうか)。

また、ここにも「情報のフィルタリング」という作用がある。
己の主張に対して傍証となるものには耳を傾け、反証となるものからは目を背ける。
武田龍夫の勇み足があちらこちらで参照、引用されていくなかで、やがてあたかも事実であるかのごとくに一人歩きを始める。「情報リテラシー」の初歩を踏み外している。
戸塚宏脳幹論と、コンラッドローレンツの関係、そして勝手に(敢えていうと妄想して)ありもしない権威をでっち挙げた石原慎太郎やその劣化コピー、有象無象よりはまだマシかもしれないが)

こういった「妄想の神話」がどのような社会を紡ぎ出していくのか。
ライブドアの株価が300円を越して(下手をすると、6年間無配なんだろ)
国家財政破綻の間際ではずかしげもなく後代にさも偉そうに「国家」を語り、憲法を創ろうと…。

「恥」という概念を失っているのはいったい誰なんだろうか。