林道義/幸福なものの残忍さ

林道義HPのコンテンツを読んでいる。そこここで理論は破綻し、矛盾は放置されたままになっている。それでいて論調はあたかも「ヒューマニティ」に溢れているかの装いを見せ、その実酷薄なまでに残忍な結論を導き出す。−そして、更に深刻な事にご本人はその残酷さにお気づきにならない。
いったい何がこの悲喜劇を駆動させているのか。


…について、論考しようと思うけど。どうも話は単純なようなんですよね。
自分は幸せである → その幸せは「家族」からもたらされる → 全ての人々が「家族」を持てば、きっと全ての人々は自分と同じような幸せになれるに違いない → しかし何を勘違いしたか「家族」を否定する人々が居る → 自分はこの幸せへと至る道である「家族」を守るために、これら心得違いのものたちを批判していかなければならない。

おおよそこんな道順になっているようですね。

ヒトによっては「家族」を持てないヒトも居ます。また、「家族」から阻害されたヒトだって居るわけです。ヒトは確かに「家族」を持って幸せを得ることもできるでしょう、しかし、ヒトの幸せにとって「家族」とは必要条件ではないでしょうし、十分条件でもないでしょう。

ヒトの様々な在り方を肯定できず、この自分の信ずるドグマに囚われると、ヒトはファナティックになりどこまでも残忍になれてしまうのでしょう。

参考リンク:
道義リンクス

  • 残念ながら更新が止まっているみたい。

純な家

  • お嬢さんのHP、旦那さんは田中純(!)

フェミナチを監視する掲示板

なんだか面白そうなので。
共認革命 るい/るいネット−新理論サイト

  • なんだかさっぱり判りません。林道義を評価しているみたいなので。というか、純粋に面白そうなので。



どうしようか、考えているのですが。
林道義の問題がある程度、明確になる事例「家族  1 フェミニスト家族論の批判 (1) 非嫡出子の区別は正当なり
当該事例の朝日新聞記事のキャッシュ(gooニュース)

福喜多さんと田中さんは、慣れ親しんだ姓へのこだわりから婚姻届を出さない事実婚を続けている。