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「乗客」の運転士2人、救助作業せず出社 JR脱線事故(朝日新聞)

尼崎の列車事故で、JR西日本の社員が当の列車に乗り合わせ、そのまま救助作業に手を貸さずに業務に向かったという出来事があった。


報告を受けた上司も特に指示を出さずに業務につけさせたようだ。報道の論調は批判的なようだし、これを捉えてJR西日本の安全やら緊急事態への姿勢を非難する言葉が飛び交うのかもしれないなと思う。

しかし、どうなんだろうか?
例えば、自分がこの社員の立場に立ったら、あるいは逸早く業務に向かったかもしれない。本当に現場の事は判らないけれども、医者であるとか救助に特別なスキルを持っているわけではない者としては、それよりも自分に与えられた使命である業務に戻るという選択肢はそれほど違和感を感じない。
よく、芸能などでは「親の死に目にも会えない」という事が言われる。親が死のうと舞台に穴を開けてはならないという戒めの言葉な訳だ。それを考えると、事故に遭遇しながらも業務をしつづけた使命感は見上げたものなのかもしれない。

目の前に異常事態が起こっている。それに手を貸す。というのは、社会がコミュニティを通して要請する要求だ。これらには鈍感になっている、ならざるを得ない事情も有る。つまり、多分あの場所で消防やら警察が駆けつけたならば「JRの社員です、この電車に乗り合わせたのでお手伝いさせてください」と申し出ても「ここはわたしたちで作業しますから、あなたは念の為、病院で検査を受けるかしてください」とか言われて追い払われるだろう。その昔、火災に遭遇した際、バケツリレーに参加したものの消防が駆け付けたとたん、追い払われるように現場からは鳴らさせられた経験も有る。消防にしてみれば、そこで一般市民に怪我でもされたら大変だという事なのかもしれない。客観的に見ても、消防が居たなら下手な素人がうろうろしていては足手まといというものなのだろう。
小川に張り巡らされた金網。コミュニティの成員として、その地域の小川と、その周辺の芝生でゴロリと寝転がる事は許されないのか?許されない。そのコミュニティの責任を国家が勝手に引き取ってしまって、その小川での転落事故は国家の責任となってしまった。故に、その小川と周辺の芝生の管理責任は国家(から、移管されている地方自治体)にあり、立ち入りの権限も国家が差配する。
こうして、コミュニティは分断され、国家が個人と相対する。
どうぞ、こちらの公園で。
社会が会社を通して個々人に使命を課す。個々人はその会社組織を通じて社会に働きかけを為し、生きる糧を得る。個々人は、社会人は会社を通じて(または、類似の組織を通じて)社会と繋がっている。

目の前の異常事態はコミュニティの異常事態だ。しかし、自分は会社に己が果たす使命が有る。
個人がコミュニティと直接接続されず、国家やら会社がその仲立ちをしている間に、社会人は社会と直接接続する術を失ってしまったのだろう。