憲法記念日

今日は憲法記念日ですね。憲法について2つの指摘と1つのお願いを書いて見ます。「続きを読む」をクリックすると、「どっひゃ〜」っと表示されます。

指摘:1.憲法とは「国家」を制限する法律である、という当たり前の確認。

憲法とは何か、何かって国の基本法なんですが、これって「国」の法律なんですよね。「国家」ってなものは他って置くとなんでもアリになってしまいます。なにせ死刑という形で未だにヒトを殺し続けるのが「国家」なのですから。これに制限を加えなければなりません。その為の約束事が「法律」であって、その基本になるのが「憲法」であるわけでしょう。よく、「憲法には国民の権利ばかりが書いてあって義務が書かれていないではないか」という意見を見聞しますが、これなんぞまったくの詭弁です。国民は生まれたらお役所に知らせなければなりませんし、生きていく間稼げば税を払わなければなりません(この義務は憲法にも明記されている)。また、死んだら死んだでお役所にちゃんと届けなければなりません。これらを怠るときっちりと罰則がかかってきます。つまり、国民の義務は様々な法律の形で定められているのであって、その範囲は車に乗ったときのシートベルトであるとか道路を歩く時の咥えタバコにまで事細かに及んでいます。
国民には国民の義務が幾らでも定められているわけです、しかし、それが制限なくならないように予め「国家」が「これ以上個々人に対して踏み込んではいけませんよ」という制限が「憲法」という国家が国民に対して行う約束なわけです。
国民は「憲法」に守られ、憲法に定められている範囲外には、本来何をしようと、どのように振舞おうと自由なわけです。この柔軟性が様々な環境の変化から社会を守っていくわけです。
ですので、この「憲法」に例えば「家庭のあり方」であるとかを盛り込もうなんて議論はあってはならないものであるべきです。社会の変化にともなって、それぞれの個々人が幸福を追求する形として、様々な家庭のあり方を模索できるべきであって、今の価値観を将来にわたって押し付けてしまっては社会はどこかで歪を来たすでしょう。
もう一度確認します、「憲法」とは国家が国民に対して行う約束であって、それは国家の在り方を規定すべきで国民個々人の在り方を規定すべきものなどではありません。

指摘:2.「憲法」が今の社会とそぐわないという意見に対して。

確かに今の「憲法」は理想論でしょう。相次ぐ戦乱を見るにつれ「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」していて大丈夫だろうかと疑わずに居られませんし、「国際社会」が本当に「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」のかも甚だ心もとない思いにかられます。
しかし、それがなんなのだろうか。
理想と現実があって、現実に理想がそぐわないから理想を打ち捨ててしまおうというのは文明というものに対する敗北でしかないではないか。この理想の実現まで営々と、ある者は命まで失いつつ築き上げてきた「文明」を否定する行為だろう。
ブドウが手に入らないからと言い訳ばかりを言い募るのはキツネだけに任せれば良い(この部分、某所のパクリである)。

過去の先人(天武天皇も含まれる)の理想を踏まえつつ、努力を怠らず現実を理想に近づける行為こそが、過去の伝統を尊重し、将来に亘って誇りを維持し続けられる方策なのではないのか。逃げちゃダメだ。

一つのお願い。

とは言っても、わたしは実は改憲派なのである。もっともっと理想と現実を見つめなければならないと思っている。けれどもそれらの議論は棚に上げたい。
なぜなら、「憲法」とは一旦定めればそれが将来にわたって国の形を定めるだろうと思うからだ。その影響はわたしたちの子供や孫の世代を縛っていくだろう。それであるならば、これら子供たちや孫たちを縛っているもう一つのもの、その頚木を断ち切ってから「憲法」を語っても遅くはないのではないか。
そう、国家破綻まで叫ばれている国債、更に地方債。これらの借財を返し終えるまで、わたしたちの世代はとてもおこがましくて「憲法改正」だの「国のかたち」だの言っては居られないと思える。

先のエントリーで石原慎太郎文藝春秋掲載文を俎上に乗せたが、それらを見るに思うのは、彼の「今、俺」の視点だ。「将来、子や孫」の視点が決定的に欠けている。

ここで「憲法改正論議」などに現を抜かして、足元の借財を放置するならば、我々は100年後、200年後の歴史家からなんと評価されるだろうか。わたしには放蕩者の与太話にしか思えない。

本当に、子供たちや孫たち、またその先の子孫に想いを致すのなら、わたしたちにできることは「憲法論議」などではない、「国債の償還」こそ急務なのではないだろうか。