社会を構成するもの

「あんたには他人(ひと)の痛みは判らないのか」
「判るさ、俺は極道だ。痛みが判らなければただの外道に成り下がる。しかしな、痛みが判っていて、それをしなけりゃならない時にできるのが極道なんだ」

倫理を駆動するもの

あるところで「倫理と道徳」という議論が取り上げられていた。そこで「道徳とは形式的なもので、倫理とは内発するものである」という主張があった。道徳などというものは、押し付けが可能であり外形的な形式を整えるに過ぎない。そんなものは有っても無くてもさして意味が無い。そんな表面的なものを求め、また形式的なもので満足するというのは、その者自体が物事を表面的に、形式的にしか見られず、理解できないという証左に他ならない。「奴隷道徳」を求めるものは、その実己自身が「奴隷」となっているに過ぎないだろう。

必要なのはそんな道徳などと呼ばれるものではなく、倫理であろうとするこの意見には同意する。その論者は「今の日本にはすでに倫理はなくなっている」と見なしているようだが、その観察にはわたしは懐疑的だ。日本にも「倫理」はまだ残っているだろう。そもそも、倫理が内発するとして、それを駆動するものは一体なんであるか。そこまで考えを深めないとこの「倫理と道徳」という問題は本質が見えてこない。

この倫理を駆動するもの、それは「他者性の獲得」である。
先日のエントリーで自分の課題として挙げた中の「社会的交換モジュール」の話題にも繋がる話なのだが、ヒトがヒトとして社会を形成する上で必要なのはこの「他者性の獲得」に他ならない。これが無くなってしまえば「万人の万人に対する戦い」という様相が現れてきてしまう。わたしの老師はこの状態をケダモノとみなした。「ヒトはケダモノの世間では生きては行けない」と語った。

「他者性の獲得」とは何か

「他者性の獲得」とは何か。
「その他者が自分と交換可能であるとみなす事」とも言える。あるヒトが痛みを感じている、または恵まれない境遇にいる。自分がその痛みを得たらどれほど辛いだろうかと想像する。自分がその境遇に置かれたらどのように思うだろうかと共感する。
つまり、簡単な言葉で言えば「思いやり」「デリカシー」といったものなのだろう。
「他人(ひと)の立場になって考える」こんな言葉は、それこそ小学生レベルでも理解できるだろう。「諸悪莫作/衆善奉行/自淨其意/是諸仏教*1」といったところだろう。

最近もある国会議員が秘書に対して酷い扱いをしたというので批判されている。どうにも人間「先生」と呼ばれて「偉く」なると一々他人の事を構わなくなる。自分の痛み、辛さばかりを挙げ連ね、身近なヒトの困難にすら盲目となる。そもそも政治家などというものは代理者なのであって、誰の代理なのかといえば、その社会で困難に瀕しているものの代理なのだろう。政治家の要諦に「思いやり」が挙げられるのはこの為であろう。他人の痛みを理解できないものが政治を差配する資格など無い。つまり、倫理を理解せず、道徳に頼ろう等という見識の者に政治家である資格など無い。*2

公共空間とは

ヒトから殴られれば痛い。だからヒトを殴らない。
自分にとって他人から足を踏み入れては欲しくない所がある、それを知るものはまた、他者に対しても足を踏み入れはしないだろう。こうやってお互いに慮りをもって足を踏み入れない場所ができる。それぞれの個々の間に隙間ができる。この隙間は誰のものでもない。こうやって出来てきた場所が「公共空間」と呼ばれるものであり、それぞれが尊重すべき「公」なのである。
社会とは、そこに含まれる個々人と、それら個々人を取り巻くこの隙間であるところの公共空間からなる。*3

排除の論理

社会的な存在として自立した個人は「他者」を認める。自分自身がその他者と「いつか交換されるかもしれない」という可能性に開かれている。可能性に思いを馳せる事ができる。
であるので、敗者、弱者、病を得たもの。に対して、それを「他人」として切り離すことはできない。自分もいつかは敗者となり、再度の挑戦を求めるかもしれない。自分もいずれかの領域では弱者であり、それを捉えて自分自身を完全否定されてはたまらない。そして、自分も何等かの病を得て社会に負担をかけるかもしれない、けれど、だからといって社会から見捨てられ切り離されるのはたまらない。
このように自分の身に置き換えて考えることができるものは、それら不遇な者たちを切り捨てることはできない。排除の論理を持つことはできない。

「他者」とはなにか

ここで今一度「他者」とは何かを考えてみたい。
「他者」とは自己とは異なるものである。その全てである。対話が可能なものだけに限定された概念ではない。自己との対話が決定的に不可能な者をも、また他者として置かなければならない。共存を謀らなければならない。

ここからちょっと脂っこくなってくる

会話不可能な他者と対面した時に、取り得る手段は二つしかない。

  1. 関係を断絶する
  2. 関係を築く(対話可能性を探る)

関係を断絶するのは簡単な事である。
日本という社会は今までも、そしてこれからも、この断絶をしつづけてきた。しかし、それは排除の論理と替わるところはないだろう。
また、関係を断絶するならば、その他者に対するコントロールは永久に不可能となる。
もしも、その他者を何等かの形でコントロールしようと思うのなら、関係を築いていくしかあるまい。*4

戦略なき対北朝鮮外交*5

例題として対北朝鮮外交を考えてみよう。北朝鮮という国家が、日本という国家と価値観を異とし、様々な衝突する利害を持っていることは間違いがない。つまり、対話が困難な相手であるのはその通りだろう。では、ここで取り得る戦略を考えてみると、結局大きくは上の2つしかないだろう。
今、北朝鮮に「経済制裁」を求める声が大きい。北朝鮮に対して「経済制裁」を発動すれば北朝鮮は困窮するというのである。そうなんだろうか?
例えば、今日本と中国の間もギクシャクしている。「中国に投資する方々もいらっしゃいますが、中国にはカントリーリスクがある」という政治屋もいる。つまり、日本は中国なしでもやっていけるようにしなさいよ、と言っているわけだろう。
北朝鮮の立場になって考えてみよう。北朝鮮からみれば日本に依存することは「カントリーリスク」がある。それが日本の所為、北朝鮮自身の所為かは置くにしても、いつ何時「経済制裁」という形でその依存関係が途切れるかもしれない。そんな危険な関係に何時までも安閑と依存していると思いますか?
北朝鮮経済制裁を!」と言うヒトはどうも考えが浅いようなので、相手の北朝鮮もそのような浅い考えに立つと思っているのかも知れないけれど、そんなヘボばかりではないだろう。つまり、当たり前の知性があれば日本への依存から脱却するようにしてしまうんじゃないのか。
実際に、魚介類だのナンだのの輸出入に、中国とかロシアを介するという手段が取られているようだ。

またこう考えてみれば判りやすいかもしれない。
この日本に対して米国とビルマ(これはどこでもいい)が経済制裁を条件に相反する要求を求めてきたら、日本は果たしてどちらの要求を飲むだろうか。
誰でも「米国の要求を飲む」と答えるだろう。それは何故か。ビルマ(例ですから)と米国を比較した場合、日本自身の依存する度合いが米国の方が高いからである。

こんな話を聞いたことがある。拷問をする際に、ずっと痛め続けるのはバカか、そういう趣味のヒトのやることなんだそうである。賢い奴は(時間に余裕があれば)拷問の途中でまったく痛みを加えずに置くそうだ。そして再開するのである。「さあ、そろそろしゃべるか?」拷問を受けるものにとって恐怖は、痛みを加えられつづける時ではなく、「これから傷め付けられる」という予想なのである。
痛みが有り続けるなかでは、ヒトはその痛みにもなれてしまう。本当に痛いのは「痛くなる」という落差なのである。

であれば、本当に「効く経済制裁」というのは本来日本と北朝鮮が経済交流をして、北朝鮮国内にも少なからぬ対日貿易で利益を挙げる者たちが存在し始めてから為される経済制裁であって、今のように「逃げなさい」といいながら何もしないのは、コスプレSMの女王様の玩具の鞭の一撃というものだろう。

実は、経済制裁だのなんだのって言っているヒトたちは、本当の所、北朝鮮をコントロールしたいなどとは考えていないんじゃないかって気がする。核攻撃まで口にする者もいるけれど、核で焼くか、穴でも掘って埋めるか、早い話が北朝鮮がこの地球上からいなくなってくれれば清々するって人達なんだろ。
つまり「他者」を獲得できていない。小学生レベルの言葉を体現できていないってことなんだ。
その昔、「鬼畜米英」という言葉があった。米国を理解するために英語を勉強すれば「敵性語」と白い目で見られたわけだ。本来なら「敵」であれば、いよいよ理解しなければならない筈なのに、知る必要はないと思っていたのだろうか。孫子の兵法も理解できなかったのに違いない。
いまでもそうだ、北朝鮮の内情を調査しようと、接触を謀れば「工作員」ですからね。
日本では「不可触」という概念がある。*6

…オチがない。


*1:法句経の一説、「ショアクマッサ、シュゼンブギョウ、ジジョウゴイ、ゼショブッキョウ」と発音する。大意は、「悪いことはするな、良い事をせよ、心を穏やかに保て、これこそが仏の教えである」

*2:それらのものは奴隷を求め、己も奴隷となっているに過ぎない

*3:順番を間違えてはいけない。個々があって公共がある。「王のいない国はあっても、国民のいない国なんて笑いものでしかない」公があってこその個人とみなしてしまえば、個人はどこまでも退縮できる。やがて個は無くなってしまうだろう。このようにして自我を喪失したものが、公を「国家」を求める。自身と国家の境目がなくなる。「日本代表」の成功を我が事のように喜び、求めるのも自身の自我が喪失してしまったからなのだ

*4:ここでは、「他者をコントロールする」ことに先ず主眼を置いたが、勿論これは「他者に自分をコントロールさせる」または「自己の変容」を含んだ上での話である。対話可能性とは、自己がその他者に対して開かれると共に、その他者も当方に対して開かれる。こういった相互のコントロールを通して築かれる関係性だろう

*5:はいはい、ここから工作文書ですよ

*6:「外国人」を人間として見ないという一端があって、例えばこういった文章で日本人には「さん」などの敬称をつけるが、外国人の名前には敬称をつけないという文章をあちこちで見る。「クルーグマンの主張、金子さんの異論」てな具合だ。文章中、そのヒトの人格を語るわけでなく、その主張を俎上に乗せるだけなら、そもそも敬称は必要ないだろう。ってのがわたしが文章中に敬称を付けない理由なんだけど、日本人には敬称を付け、外国の方々には敬称を付けないってヒトは、どういう基準で敬称を付けているんだろうか?