「名誉」という仮構(続き)

各個人それぞれの「権威」であるとか「信頼」の基盤である「名誉」というものは仮構である。真実であってもそれを公に晒す場合、公共性、公益性が認められなければ「名誉毀損」となり得る。つまり、真実であっても隠される事によって名誉とは守られる。


これは人間というものをちゃんと理解した法理であると思われる。人間などというものは、その心の奥底にヒトには見せられない情念を持っていたって良い。ただ、そのドロドロとした劣情を公共の場に晒す必要も無いし、晒される事も無い。これは当事者にとっても、第三者にとっても必要な措置である。そう、そもそも公共性とはこのような隠蔽によって成り立つ。
また、そのような情念から公益に関わる問題を語るべきではない、公益と個人の情念は切り離されるべきだ。なので、ドイツに留学したときに劣等感に苛まれたぐらいのことで日本という国に異常に恋慕し「愛国」に目覚めるなんて姿も幼稚極まりない。個人の領域で解決すべき問題だろう。

公共の場では皆が公共の姿を保つよう要請され、そのすました姿が社会を「健全」に形成する。もっと判りやすく言うと「パンツぐらいはきなさい」ということだ。

実名とは何かを考えてみよう。
実名で発言することは勇気のあることであって、匿名での発言は勇気のないことであろうか。そもそも実名によって何かを語るという態度は、その実名に伴う「権威」「信頼性」を基盤として語るという作業であるのだろう。それは仮構でしかないし、そのような狭雑物に頼らなくては発言の信頼性を獲得できないとなるならば果たしてどれほどの「勇気」を期待できるだろうか。
匿名投稿の信頼性を評価するためには一々の検証が必要であり、実名による投稿であればその評価コストが軽減される。という議論もあった。果たしてそうだろうか。現在かまびすしいジャーナリズム議論もその一端なのだが、結局すべての「権威」はどこかで腐敗する。常に検証を怠ることはできないのだ。常に。
また先にも「森昭雄」であるとか「日本健康行動科学会」といった例も見てきた。これら「権威」に対して「コスト」を理由に信頼を寄せる姿は、申し訳無いがわたしには詐欺に引っかかった被害者の姿と区別がつかない。そこで見落とされているものは「検証」の作業であるし、「保留」という良識の存在だ。

事柄を語るときには、その事柄そのものを評価すれば良いのであって、その事柄を語っているもの、語り方を、その事柄と絡めて扱ってはならない。そして、信じられると思えた時でもその意見に両手を一気に掛けることは無い。

社会存在としての個人は、その内面に他人には見せられない情念を宿す。これは誰だって宿すのであろうし、社会はその情念を否定しない。本来、この情念と公共の在り方の差が、文学と哲学やら社会学を隔ててきたのではないかとも思われる。社会に表立ってあらわせない情念を匿名で表明し、自らの情念がどれほど傾いているか、または傾いていないか。これを確認する場が匿名掲示板であったのだろうし文学の姿でもあったのではないだろうか。
(ああ、そうか。こういった他者の情念にまったく開かれていない石原慎太郎芥川賞の選者やっているようじゃあ文学も死滅して当然と言えば当然だわな)
個人は守られるべきだ。当然「公人」とされる者も、その「個人生活」という領域では守られるべきだろう。―小泉がプリンスホテルで何をしていたかなんてどうでも良い。

発言者の存在を秘匿した。匿名の発言にも名誉は与えられ、予見として信頼性は与えられるべきだ(当然、その大部分は評価によって即座に信頼を棄却されるだろう。発言一つ一つに信ずるに足るだけの要素を組み込むのは大変な作業に違いない)。
(なんとなく、自分なりに論考が変なところに着地した感は否めない わらい)