簡単な要約:
宗教と右翼と経済原理主義と社会と個人とセーフティーネットと企業と家庭と価値観とアノミー成果主義ホリエモンとニセ札と木工業者と寺と明治維新と部屋とワイシャツとわたしとちょっと古いなこの落ち。
つまり、長いから無駄。


一つの宗教団体が何等かの指令を発して特定の政治活動を進めているという見方は陰謀論に陥りやすい。確かにそのような事例も有るのだろうけれども、信教の自由という観点から、彼(彼女)らがどのような思想心情の下に活動したにせよ、それを否定するのはなかなか難しい。そもそも宗教的確信というのは客観的な正当性を持ち得ない、主観的な偏頗に相違ない。もともと主観的な偏頗であることを前提としているわけだから、その到達範囲が主観的領域に留まっている限りは批判の対象とはならない。どうぞご家庭でご自由にお楽しみください。
けれどもそのような偏頗な思想がけじめをなくして公共空間に漏れ出てくれば、それは評価の対象となって良いだろう。つまり、個々人が死生観についてどのような思想を持っていようとも自由では有るが、では「脳死」という問題を法的に扱う際には公的なレベル、公的な空間で議論を行い、社会的に一定の合意を得なければならないし法的な枠組みを作ってその枠組みを乗り越えようとするものには一定の制限を付けなければならない。死者を「まだ生きている」と言って食事を添えたり紅茶を飲ませようとしてはならないのだ。
しかしこの様相も少し視点を換えてみればとんでもないものであるとも見なせないだろうか。つまり、あなたにとってかけがえのないヒトがいたとする、そのヒトはもう動きもしないし息もしていない、しかしあなたはそのヒトの死を受け入れられないとする。更に、あなたの信奉する宗教観が、あなたのその確信を是認したとしよう。この時、社会が、つまり市役所の職員であるか地域のケースワーカーか警察の職員かはたまた医師が、そのヒトは既に死んでおり、あなたの行為は死体遺棄に当たるとあなたのそのかけがえのないヒトの体をあなたの元から奪い去り火葬に伏し、尚且つあなたにを拘束し裁判にかけるとしよう。あなたはそれを容認できるだろうか。
社会的に見て「死体」を各々がそれぞれの確信に従って好き勝手に処理するという行為は許容されない。社会は自己を防衛するために時に個々人の宗教的確信に土足で上がりこみ強制的に排除を行う。勿論法的な枠組みの中での話であるが、その法的な枠組みなるものはマジョリティの一方的な決定でもある。

宗教の話はまた後に少々触れるが、法律とは社会の要請する自己デザインの産物であり、社会と個人の間では時にこのような相克が発生し、個人は社会の要請の下にひれ伏さねばならない。また民主主義の下では、個人の尊厳を守るために、個人は社会に働きかけ、社会の枠組みを決める法を制定する権能を持っているとされる。

しかし実際は一人の個人がそれほどに大きな力を持っているわけではない。個人が直接に法を制定するという事はなかなかに行われず、社会的な議論の帰結として法が制定される。(とはいえ、実際は立法機関である国会議員が立法をなすのが建前なのだが、司法行政機関である行政の構成員、早い話が官僚が個人的な力で法律を制定する事例は往々にある)

このように様々な価値観を持つ個人と個人、また個人と社会の間、そしてそれらを司る法というもの、これらの間の調整、会話、議論が充分になされていれば社会はそこそこ健全で居心地の良いものになるだろう。しかし現実には様々な歪が発生し、その軋みの中に個々人は放り出される。

わたしも散々取り上げてきた「ライブドアVSフジテレビ」という闘争もこのような観点から見た場合非常に興味深い様相を表す。
つまり、「企業とはなんであるか」という論点を浮き出させてくれているのだろう。

企業とはなんなのだろうか。ひらで読めば「業(なりわい)を企(くわだてる)」と読める。つまり身過ぎ世過ぎの手立てという事になる。生きていく手段なんだろう。これは非常に判りやすい。例えば、木工に秀でた者であるとすればどこかから木を手に入れてそれを加工して、つまり付加価値を付け、転売していけば次の原材料である木を手に入れる事もできるだろうし加工している間の糊口を凌げる。やがてこの循環が順調に行けば販売を販売の得意なもの、運搬をそれに優れたもの、金銭の管理、原材料の仕入れ目利きと一つの産業に様々な者が集まりそれぞれの付加価値を付与してそれぞれの糊口を凌ぐように企む。その集団が「企業」となっていくのだろう。このような姿は多分「通貨」の発明以前からあった至極自然な社会的動物としての人間の姿であったに違いない。「通貨」はこれらのなりわいの中で、付加価値を含めた価値を推し量る手立てとして誕生した。

また、これらの集団を捉えたときに、手の良い職人は「親方」であるとか呼ばれてその集団の構成員に職能に関わる以上の権能を有したであろう事は想像に難くない。ひょっとするとこの職業集団は住食までも共通の生活を送り、一つの擬似的な家族を構成していたのかもしれない。このような姿はつい近頃まで見られた。ある大企業には「残業パン」という制度があるそうだ(今も残っているかどうかは知らない)。これはその大企業がまだ町工場だった頃に、遅くまで残業を続ける社員を思って当時の社長が差し入れを行ったという逸話に端を発しているらしい。勿論、現在では総社員数が数千を越えるこの企業で社長がポケットマネーで「残業パン」など配布できるわけもなく、またそれらの行為が税的に問題視もされることから、実際には人件費、つまりは給与の一部を「パン」という現物で支給することとなっており、一部の社員からは「今時パンかよ」と不評でもあるそうだが。

この例に見るように、企業を一つの擬似的な家族として見なし、またはその場を職能を磨く道場と見なすような姿は現在でも見受けられることであろうし、少々アナクロではあるだろうが、日本の社会にとっての企業というものを見た場合の捉え方と言って良いかもしれない。または、ちょっと過去形で、言って良かったのだろう。

ニッポン放送」という企業の中で職能を磨き糊口の糧を得ているものにとっては、それは一つの家庭であって、彼ら職員の物であったに違いない。しかしこの企業が上場を果たした時に事情は異なってくる。企業は「オーナー」を得るのである。

ここでは「通貨」の論理が、資本であるとか、それを構成する経済の論理が優先される。

経済の論理で見た場合「企業」は一つの利殖の手段でしかない。

あなたがまとまったお金を持っているとしよう。数百億。さてあなたならどうする?

銀行にすべて預けて南の島でのんびり暮らすか。(あ〜いいねぇ)

しかし預けた銀行が消えてなくなるかもしれない。それらのリスクを回避するために幾つかの銀行に分散して預金した方が良い。また、ある一定額は郵便局の貯金に回しましょう。しかし預金だの貯金だのでは利子はたかが知れている、少々リスクがあっても一部は株に投資すると良いかも知れない、国債も買っておこう、金などの商品市場も良いかもしれない(もちろん、そんなにお金があるのなら証拠金取引なんて眠たいことはしない)。
こうやってそれぞれの利率とリスクを考慮して様々な場所にお金を分散して有利な利殖と安全を図る。これがポートフォリオというものだろう。
その内に面白い仕事を提案してくるヒトが現れる、あなたはリスクと利率を考慮してその企業に出資する。つまり企業も一つのポートフォリオの構成要素に組み込まれる。

それまで職能集団の擬似的な家であったものが、資本の立場から見ると単なる利殖の方法でしかなくなる。いや、実際には職能集団が構成される以前から、この論理は働いていた。先ほどの木工業の例で見ると、加工の際に付加価値を付けて売るという行為があった。この付加価値が加工に必要な期間と比べて少なければ、この職人は加工の途中で米びつが底をつき加工を続けることはできない。加工の間糊口を凌げるだけの充分な付加価値を付ける必要があった。
この原材料と工賃という資本を元手に、どれほどの付加価値をどの程度の期間で得ることができるか。これが、なりわいをくわだてる企業の姿であったのだ。

とはいえ日本においてはこのあからさまな資本の論理は幾重にも隠蔽されていたように思われる。終身雇用、年功型序列賃金。ここには日本人の持つメンタリティである「先読み」であるとか「安定性」に対して応えようとする企業人、資本家、または経営者の知恵があったように思われる。腕の良い職人が長い患いを得てその企業に付加価値を与えることができなくなったときに、資本の論理を振りかざしてこの職人を切ってしまえばそれを見ていた他の職人は将来に不安を持つだろう。隣町にそのような時にも世話をしてくれる「親方」が居ると聞けば幾人かはそちらに移るかもしれない。擬似的な家制度を取ってきた日本型企業風土と言われるものは、このような個々人の価値観、メンタリティと資本の論理をバランスして生まれてきたもののように思われる。

(ゲゲンチョ、どうするよ、まだメモの四分の一も進んでないってよ)

翻って、米国型の社会を見てみると、そこにあるのは「流動性」「刹那主義」ともいう企業風土かもしれない。確かに米国においても擬似的な家族制度を採る企業はないわけではない。しかしその多くは別のコミュニティを形成し、企業においては人材の流動性、年毎の成果別賃金など、安定よりもより高い支払いを、先読みよりも今の現金を求める姿が目に付く。

資本の集積は悪であるだろうか。企業に一定の資本の集積が無ければ研究であるとか開発はできない。また、現在のように医薬であるとか高度に技術集約の必要な工業においては資本の要請は高まる。ある面、企業における資本の集積は社会をより豊かに変えていく前提となることは間違いが無い。
翻ってこれらの資本集積を否定する者も居る。企業に過剰な資本が集まり、その利回りが低ければそれは無能な経営者というわけである。先ほどの仮想的な資本家の目から見ればその通りだろう。2つの企業に一億の資本を入れて片方は毎年100万円を入れてくる、もう片方が50万円しか入れてこない。どちらが有能な経営者と見なせるだろうか。
これは非常にシンプルだ、そして論理的だ。企業の業態であるとか内部の事情など知ったことではない、その産業自体がその程度の利益しか得られないならばとっとと撤退して他の産業にその資本を投下した方が利回りが良い、ならば企業を潰せば良い、業態の変化に追従できない職員には辞めてもらうしかない。非常にシンプルで判りやすい。しかしここには隙間が無い、冗長さが無い。
所謂「成果主義」「窓際族は用無し」というのは判りやすい。「リストラ」が「馘首」と同義語になった背景には、それまで如何に日本の企業風土にこの隙間であるかと冗長性があったかということなんだろう。
この隙間は経営者にも当てはまる。その一つの例が堤西武王国の姿であったのかもしれない。
しかし、ではこの隙間、冗長性は一方的に斬って捨てるべきものなんだろうか。

そもそも「成果主義」とは言うもののそんなに簡単に個々人の生産性というものは計測できるものなのだろうか。「成果主義」にはその前提に一元的な価値観というものが、またはその合意が必要なのではないだろうか。

米国という社会は元々多文化が融合した社会である。それが西欧諸国、更には時代が下がって社会主義という異物と対峙し、一つの中心的な価値観を模索しようとして造られた人工国家である。であるので彼等は「アメリカンドリーム」「フロンティアスピリット」更には「建国の理想」「立国の精神」を己の身近に置こうとする。(多文化であるから<帝国>になるという大澤真幸の議論にも足を突っ込みたいけどパス)
翻って日本はどうだろうか。日本は単一民族と言われる事も多い。確かに言語であるとか人種的な特徴において米国と比較すると同質的であるだろう、しかし何か共通の価値観を提示することができるだろうか。
(「できる!」とお思いの右翼憂国系の方にお聞きしますが、あなたは「神武天皇建国の理想」を言えますか?また、あなたの街宣仲間は。言えなければあなた、またはそのお友達は馬鹿です)

この日本は多元的な価値観の下に構成された社会である。更には昨今はこの価値観すら喪失されているとお嘆きの方々も多い。戦後教育が悪いんだと。違います、戦前の、司馬遼太郎言うところの「奇形的な日本」がたまたま「皇国教育」で一元的価値観を人工的に作り上げて来たに過ぎません。それ以前も日本はそもそも多元的でした。そうでなければ明治維新のあの騒ぎは起きないでしょうに。「坂の上の雲」の読み違いってもんです。

実は米国においても価値観は多様である。確かに企業風土、資本の論理などには一元的な価値観が裏付けを行う。つまり「自由」であり「公平」だ。*1

しかし、それを離れれば様々な価値観が「自由」とされる。そして地域コミュニティであるとか宗教が健全な姿をあらわす。それらが「自由競争」の下に取り残された者にセーフティネットを与える。
これが今の日本にはない。例えば落語の「道具屋」という噺がある。この噺は成人をとっくに過ぎても定職を持たない「与太郎」に「伯父さん」が家業である「道具屋」を教えてやるという筋立てを持つ。この「与太郎」は現在で言えば「ニート」とでも言えるのだろうか。このままでは所帯はおろか、親が亡くなれば個人で生きていくこともままならない、そうならないために「伯父さん」が苦心をするというわけだ。落語にはこのような「与太郎」が様々に登場し、「伯父(叔父)さん」であるとか「大家さん」または「町役さん」やら何等かの職能集団の「大将」が自立を即すという筋立てが多い。ここに豊かな地域コミュニティの教育、つまり、社会の中で一人で生きていく力を持たせるという授与の姿を垣間見ることができる。
また、戦前、明治維新前には宗教がセーフティーネットの役割を果たしても居た。農家であるとか商家の次男、三男、または素行の悪い子供を各地の寺や神社が預かり、小僧などとして教育を施したのである。また、それらの網にも漏れた者にはアジールも形成されていた、これは西欧の近代にも見られた姿であろう。
どうだろうか、今の日本にこれらのセーフティーネットが果たしてどれほどあるだろうか。地域コミュニティは完全に瓦解した。(それに頼った文科省の「ゆとり教育」が失敗の憂き目に遭うのは当然の帰結だ)日本の宗教法人はどこを見ても立派な伽藍を持ている。しかしそこを訪れればただのガランドウでしかない。どこに社会的なセーフティーネットがあるだろうか。完全に宗教法人への優遇税制は見直すべきだ。日本の宗教法人に宗教の責任を果たしているものは見当たらない。*2

(さあ、こっからが面白いところなんだけど、実は堂本( ̄ー ̄)。が既にちょこっと触れていて少々ムカツイテいるってのは内緒だ)

さて、では現代の「与太郎」はいったいどこにいるんだろうか。そもそも馬鹿で、まともに社会の中で自立した糊口の道を持たず、かといって我慢もなく寺で箒を掃く道も無い。
多分、「ニセ札」を作っているんだろう、その前は「オレオレ詐欺*3を働いていたに違いない。その前は「ヤミ金」の取立てをやっていて一部は「YA工●●BB」の契約を、一部は「マイライン」のテレアポを取っていたんだ、そしてその前は「工IT S工●P」で携帯電話を売っていたんだろう。というか、契約書だけ作ってたのか。

様々に氾濫する「インセンティブ」という言葉。これは原始的な刹那主義的価値観の表像でしかない。

さまよえる価値観のよすがとして、これらの経済原理主義があり、そこに立つのが堀江なんだろう。彼の行動には何がやりたいか判らないという意見が見られるが、多分彼自身もわからないんだろう。また、別の一群は国粋主義やら、民族主義ってものにはしるのだろう。これは簡単だ。堀江に成るにはそれなりに金を儲けるという努力なり幸運が必要なのだが日本人には生まれれば成れるのだから。せいぜい生んでくれた母親に感謝するととも、出してくれた父親に感謝せずにはおれないだろう*4

さあ、これでお分かりだろうか。(って、却って判りづらくなっただろうか)
この日本にはセーフティーネットが無い。毎年何人ものホームレスが越冬できずに死んでいく。それらを受け入れていた地域も経済原理で押しつぶされていく。「負け組み」は切り捨てられ、挙句は「負け犬」とヒトとしての尊厳すら否定されかねない。一方的な資本の論理でリストラという切捨てを行ってきた経営者はTOBという資本の論理で自らが追い出される。「ひきこもり」は家庭に押し付けられ、彼等はこのままでは親との死別と共に自分の死すらも意識しなければならない。
そんな中、刹那的な経済原理主義が横行し却って非効率な(ヤクザでもやらない)詐欺が罷り通る。このような「空気」がよすがを求めて宗教に、イデオロギーにヒトを走らせる。そう、こんな馬鹿げた論理であるからには、その宗教もイデオロギーも馬鹿げた判りやすいものが持て囃される。(あ〜、イデオロギーの中身は国粋主義やら民族主義だけでなく、アホみたいな環境保護だとかスピリチュアル・ナントカって奴も入るな)

これがこの今の社会なんじゃないんだろうか。右からも左からも、上からも下からももっと声を出してそれぞれの現場で困難を訴えなければならない。右翼憂国系の人々は「昭和維新」だとか「平成維新」だとかって言葉が好きだけど、彼等には見えていないのだろうか。そんなものとっくの昔に始まっている。この日本の社会は軋んでいる。制度改革は自己目的化させてはならない、それぞれの現場にある歪を訴えて修正しなければならない。国家など古今東西、バランスが取れたためしがないが、それにしてもこの無自覚なアンバランスは酷くはないだろうか。

*1:この「公平」と「自由」とは相補的な関係を為す。ああ、そういえば今月のサイゾーで山形が「高度管理社会が実現することこそが自由という立場につながる」というおっちょこちょいな考察をしているけど、時間が無いので、この考論には「時間の概念が無い」と、つまり「今の自分」と「過去の自分」と「未来の自分」という想定を置けば、と簡単に言っておこう。つまり「主体とは」って話になるんだけど、それやらかすとこの文章以上になりそうな気がしてきた

*2:単なる「詐欺の世襲制」だとか言うと言い過ぎになるんだろうなぁ:と、言っているけど

*3:これ、天皇陛下がやると「チンチン詐欺」になるってのは、わたしが権利を主張したい!C

*4:う〜ん、この表現は森岡正博が指摘するごとく利くなぁ、しかしこの表現のオリジナルは2、3年ほど前に「あめぞう」でやってるんだよな