ウンベルト・エーコの言葉

知っているヒトは知っているかもしれないが、知らないヒトはまったく知らない。
わたしのサイトにはウンベルト・エーコの言葉が掲げられている。

懐疑的であるというのは,
何も信じないと言う事ではない.
何もかもを信じてはいけないという事で,
まず一つの事を信じても,
その次の事は,
最初に信じた事に何等かの関連性がある場合にだけ信じ,
近視眼的に順序立てて,
慎重に検討を加えながら,
決して一足飛びに結論に挑まないと言う事である.
ところが両者相容れないような場合に,
その2つを結び付ける第3のものが
何処かに隠されている筈だと考えて
両者ともに信じてしまう.
それが,信じやすいという事なのである


ウンベルト・エーコ
フーコーの振り子
上.pp.80

本当は毎月入れ替えていこうと思っていたんだけど、放置している間になんとなくそのままになってしまって、やがてこの言葉が非常に重い意味を持っているだと気づかされた。
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20050311#p1

利害のある人の「要の告発は信じられん」という言葉と、すでに利害から離れたとされる要さんの告発と、どっちがより信憑性があるかというと、利害の少ない人の告発により多くの信憑性があるという判断は一般性を持っており、裁判所の証拠採用でも同様です。

「信義誠実の原則」はその通りかも知れないが、「要」の言葉をそのままに信じるにはまだ材料が足りない。
つまり、「ちゆ12歳=スキップアップ」という図式は成り立つのだろう。
「スキップアップ⇔金光教」という図式も。
また、「スキップアップ→ひろゆきのおっちょこちょい」という図式も成り立つだろうし、
「スキップアップ←→要」という図式も。
ここで興味があるのは、「金光教→スキップアップ」という図式が成り立つのだろうかということだ。
そうではなく「金光教←ナニモノカ→スキップアップ」という、このナニモノカ。
そのナニモノカに突き動かされてスキップアップの中のヒトは憂国に走ったのかもしれないし、
金光教の中の右派マヌーバーというものも存在するのかもしれない。
この、「ナニモノカ」に非常に興味がある。
この「ナニモノカ」が「何者か」であるとすると、エーコの警句に引っかかることになる。
しかし、仮説は立つ。

…と、言うことだろうと思う。