ホリエモンのメディア批判を聴いたり読んだりしたときになんともいえない既視感に襲われたんだけど、それが何か分かった。「1ch」開設時にいわれた「2ch」批判に似ているんだ。
前者はテクノロジーの進展とそれがもたらした双方向性と、前近代的トップダウン型のメディアの相克が舞台であり、後者は元々同様のインフラの上にのったメディアの在り方といったものの本来あるべき姿といった理念の相克だったんだろう。
(…下手な要約だなぁ、やり直し)
前者はテクノロジーの進展がもたらす旧世代と新世代の相克であり、後者はインターネットの掲示板という同じインフラの上に成立するコミュニティの在り方と言う理念の相克だったのかも知れないけど。
(…まあ、40点ぐらい?)
しかしわたしには同じような匂いがする。
「2ch」とそれへの批判としての「1ch」の設立って、結局同じ舞台の上に乗っていたものだったんだよな。挙句に「2ch」よりもある意味「酷い」場所になったりして。
ホリエモンについては、どうも彼自身が打ち出そうとしている「新しいメディア」ってものの姿が見えていないんじゃないかって気がする。どうも概念が既存メディアに束縛されているので発言に深みが無いんだろうな。発言に深みが無いのがそもそもの彼の持ち味なのかも知れないけど。

と、ここで思いついたまま全然別の話に話題が移っちゃうけど。
結局、「1ch」が求めたような物ってのはSNSで実現化されたような気がするな。つまりは「匿名性の否定」または「匿名性の制限」で実現化された。
(あ゜〜まどろっこしいぞ、自分、書き直し)
結局、「1ch」が求めたような物ってのはSNSで実現化されたような気がする。つまり、「1ch」陣営が批判した「2ch」的なものの源泉は「匿名性」に有ったということなんだろうか。

(時間切れっぽい)
SNSの特性である、「出会い系」じみた部分。
つまり、事物よりも人物に中心的な興味がおかれる運営。
これは、事物に対する情報の集約には障害となる。

発言抑制的になる。
実社会と同様の「しがらみ」やら「慮り」が必要となる。
これも事物に対する容赦ない議論の弊害となる。
容赦があるからこそ、「酷いインターネット」にならずに済むんだろうけど(そんなものはわたしには要らない、ギコハハハ)