久坂部羊の新刊『破裂』を読んだ。興味深いテーマであったので触れてみたい。ただ、これは同書のレビューとはならないだろう。また、語る上でいわゆる「ネタばれ」に陥る可能性もあるので、同書を読んで楽しみたいという方は読まれないようにお勧めする)

破裂

破裂

(時間的な都合でわたしの私見は後ほど記述する、同書より興味深い部分を先に引用表示する。わたしの私見を記述せずに当該個所を「引用」だけするという行為は「引用」の必要用件を満たしていない事は承知しているが、わたしの全く勝手な都合でこのような状態を一時的にでも晒す事を各権利者の方にはお許し願いたいと共に、早急に順法状態にしたい)

当該個所は同書の278ページ、久坂部は架空の厚労省のレポートとして次のような文書を提示して見せる。

「『国家からみた長寿と望ましい死』
《概要》超高齢化社会を迎えた日本の医療費は、もはや国家の存亡に関わる問題と認識しなければならない。年間の国家予算が八十二兆円であるのに対し、国民の医療費は三十三兆円を突破しているのである。そんな国がどこにあるだろう。日本はすでに非常時にある。(略)国家が個人の死に関与するシステムを早急に作る必要がある。誰がいつでもどこでも、心安らかに死ねる状況の実現が求められる。今や、超高齢者の現実は悲惨である。介護負担、年金問題、経済停滞、安全保障など国家運営にも重大な影響を及ぼしている。(略)国家は苦痛に満ちた死を取り除き、積極的に望ましい死を保障すべきである」

フィクションとはそもそも嘘のお話なわけだから、その嘘の話しを話しとして成り立たせる為には小さな本当を積み重ねなければならないと言われている。久坂部羊の場合、当人も医者であるとの事なので、積み重ねられる小さな本当とはその医学の知識なのだろう。前作『廃用身』においても、そお豊富な医学の知識を盛りこみ、グロテスクとも言える架空の「廃用身」という概念を構築し人間の身体性、自我とはなにかを浮き出させて見せていた。
その前作においても、場面は老人医療なのだが、わたしは彼の構築した虚構から、老人医療という現場を離れ、人間のアイデンティティと身体という現実を見せ付けられたような気がした。つまり、小さな本当を積み重ねて大きな嘘をつくのが上手い作家であると思われる。
今回の作品においても、少々の無理はあるにせよ見事に嘘をつききった。
今回のテーマは「姥捨て」「安楽死」である。
安楽な死を「死の自己責任」と捉え、肯定する厚労省の官僚を登場させて、彼の策謀を描いて見せる。読み進むうちに確かにこのように考える者も居るのではないかと思えてくる。いや、現実には幸いにも行動力がないが為に彼ほどの状態を形成する事はできないものの、「死の自己責任」「死の自己決定権」という歪んだ意図を肯定的に捉える者は居るのではないだろうか。
現在の閉塞した社会状況、経済状況を見てみると、確かに引用した一文にあるように一定の条件を満たした高齢者が安楽に死を迎える事は「国益」に準ずることとなるのかもしれない。
成果主義」の話題で考察したように、人間の存在を社会に対する付加価値を生産するユニットと捉えた場合、なんら付加価値を生成しないユニットには社会的な存在価値がないのかもしれない。つまり、このように見た場合「死の自己決定」を求められるものは高齢者だけではなく一定の条件を満たす若者、つまり「パラサイト」と呼ばれたもの、「ひきこもり」と呼ばれたもの、そして「ニート」と呼ばれたものにも適応範囲を広げられるのかもしれない。
実際に某所で「ひきこもり」問題を語り合う上で「死の自己決定」は重い課題としてのしかかってきた。
「ひきこもり」とは自己評価の縮退である。自己を評価できず、自己否定が重くのしかかる。自己否定が重くのしかかれば行動へのモチベーションが湧かない。行動へのモチベーションが湧かなければどのような成果も生まれるはずはなく、その成果がない事が更に自己評価を下げる。また、この行動が出来ないという事自体が自己を攻めたてる。
このループが完成すれば当人にとっては生き地獄と呼ぶに相応しい苦しみだろう。
いっそこのループを断ち切る為に「死の自己決定」が甘い誘惑に映っても不思議ではない。
また、高齢者においてもそうだろう。社会から必要とされず、明日は今日よりも暗い。日々己の老いを積み重ね、たそがれに包まれている事を感じる。身体は常に己を責めさいなみ、この先に生きていて如何ほどの喜びが見出せるのか判らない。
それほどまでに追いこまれてしまえば「死の自己決定」こそが救いと見えてきてしまうのではないだろうか。

わたしは終末医療における「安楽死」には肯定的である。
死こそ常態と捉え、生の特異性を尊重するわたしの「宗教的確信」からするならば、いたずらに生を責務であるかのように押しつける「確信」はもてない。
しかし、このような形での「死の自己決定」にはグロテスクなものを感じる。
個々人が「死」を自己決定の下に置くことは肯定できるが、それを社会が薦めるとすればそれは病んだ社会であろうと思われる。社会が社会の要請から個人の存在を切り離そうとするならば、そのような社会は狭量で病んでいる。
社会とは個々人が存在する為にあるものであって、社会の存在の為に個々人が居るというのは大いなる転倒であろうと思われる。

しかし「成果主義」「国益」「自己決定」という言葉が社会から個人へ向けられたとするならば、その論理的帰結はクリティカルな場面では「死の自己決定」ということになるだろう。

社会は緩やかであるべきだ。ヒトは合理的な存在などではなく何も決定論的なことは言えない。そして不合理な個人に対して、政治は常に希望を語るべきだ。政治がヒトに希望を語る事を止め、「死の自己決定」を推奨し始めた時、政治とヒトの紐帯は切れ、ヒトは遂にバラバラな個に砕け散っていく。そして社会はそのバラバラな個の単なる集まりに過ぎなくなるだろう。乾ききった砂のようなものになってしまうのかもしれない。
ヒトを有機的に結び付け、社会を社会として成り立たせていく為には、社会は常に個人に対して生きるメッセージを投げかけていくべきだ。


参考:人口ピラミッド(2004-05-09)

参考:安心のファシズム― 支配されたがる人びと ―(2004-07-26)



(1月7日付記)
【待ったなし 人口減少時代】高齢ニッポン存亡岐路(産経)