(1月4日に書いています)
昨日のトピックに関して興味深い考察をいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050104

この考察に対する私見の前に。多分、昨日のトピックに対する誤解というか、説明不足というか、あえて為した「煽り」の部分について付言したい。

う〜ん。彼らがどういうメッセージをこめているのかよくわからないのでなんともいえないのだけれど、遺族の気持ちを考えればかなりエキセントリックな感じがする。主催者にとっても遺族にとってもこんなふうに香田さんが消費されるのは我慢がならないだろう。香田さんに対する敵意や挑発といったことではなく、ただ単にビジュアル的に自己満足できるからという理由で映像が使われた可能性もある。

今度まとめてみようと思っている事柄に「最強の立ち位置」という問題がある。森達也が指摘しているのだけれど、「被害者の立場に立ってそんな事がいえるのか」であるとか「被災された方の気持ちにもなってみろ」という言説によく出会う。確かにわたしにも幾ばくかの感受性というものはあるのであって、自分がその立場になってみたらとんでもない話だよな。という事はよくある。また、実際に自分でもそれらの言葉を書き連ねてきたし、今後も気をつけないと書いてしまう事だろう。しかし、この立論はよくよく考えてみれば少々「アンフェア」であり、また危険でもある。
この世に「侵略戦争」などというものはない。大概は「支援」であったり「国際正義」などの名のもとに実際の「侵略」は行われる。
被害者の気持ちというのは正確には被害者その人でなければわかりようがあるはずもなく、それに仮託して撒き散らされる言説には多分に政治の匂いがする。その立論者が「被害者」という「最強の立ち位置」に立って自らの主張を述べている事が多いように思う。そしてそれらの主張は得てして扇情的で過激だ。
森達也はこれらの事を「主語の喪失」と捉えているが、確かに主語を喪失し、被害者感情から推し進められる事柄には行き過ぎは多くないだろうか。(例えば、9.11事件からの流れでイラクに攻め入るとか。アルカイダであるとか、アフガニスタンではなく、イラクだよ。これは過剰を超えて無茶というものだろう)
確かに香田は無念であるかもしれない(わたしの宗教的確信、つまり、宗教を全否定するという確信からすると、香田に無念の観念はない)。また、遺族も居たたまれないかもしれない。しかし、死んでしまった者、またその遺族の無念はどの程度汲み取られるべきものなんだろう。
現在では徐々に改善されてはいるが様々な事件において容疑者はプライバシーが尊重される。時には顔写真も公開されない。しかし、被害者となった者のプライバシーは遠慮なく暴かれ、顔写真が公開される。
また、各地の戦場などで写される殺害風景。日本人ではないからというだけで晒される死体。
NHKスペシャル「映像の世紀」より だって
有名なものではベトナム戦争時に米兵に射殺されるベトナム青年の写真などもあった。

それらを見たときにわたしたちはなにを感じるべきだろうか。
それらはわたしたちになにを与えるのだろうか。

そもそも全ての表現行為は多かれ少なかれヒトを傷つける。
自身も傷つきながらも、それでも表現しつづけなければならないのではないだろうか。川底を転がる石のように。