笑いは権威を地に落とす。

わたしは今回のイラク人質事件で殺害された香田の行動については評価を下したつもりはない。ただ「充分な準備もなく云々」という発言には、米兵ですら殺害される彼の地における「充分な準備」とは何か。それは結局「これで充分な準備である」という自己満足でしかない。どこまでいっても五十歩百歩の甘い想定でしかないのではないか。
アルカイダなる組織に充分な余力があり、日本政府に対する政治的インパクトを与える必要がもう少し切迫するならば、スペインで起きたような事件が日本でいつ起きないとも限らないわけだ。つまり、今日の仕事帰りにあなたが乗る列車がいつ爆発するとも限らないのだ。
そもそもこのリスキーな世界は、パレスチナ問題を端緒としているのではないか。問題の根源を放置して、その枝葉末節を捕まえてセキュアな社会を求めるとすれば、どこかの誰かのマッチポンプに嵌っているように思えて仕方がない。(陰謀論としてではなく、世界のアイロニーとして、結果としてそのようになっていると思える)

また、それとは別に。それらのすべての背景、評価、価値判断とは別に。現に目の前に死に直面した者がいた場合、それが本人の不注意であろうと何であろうととりあえず同情が起きないというのはどういうことなんだろうか。その苦境をわが事として考えるだけでも考えてみる。ヒトとヒトの繋がりを考えたばあい、この同情というレイアが駆動困難であるという現状が、社会の何かを不全としているように思える。

また、笑いは権威を地に落とす。ヒトの死を笑えば、その笑いは「死」という権威を地に落とす。またその行為は「生」自体をも地に落とす事になるだろう。
死に面して、笑いは死に行く者の「生」を地に落とす。
死に面して、嘲笑いは嘲笑うものの「生」そのものを地に落としていくだろう。自らの「生」を地に落としているヒトならざるナニモノかの間では確かに「同情のレイア」は存在しないのかもしれない。