目的/理念という<歴史性>の中で生きる者


この文章はぼーっと思いついた事のそのまた一部であって、この文章の前に前提がある。また、こういったからといってこのままそっくり自分がその通り考えているわけではない。ある条件が抜けている。
その前提であるとか、条件に関してはまた機会があれば(明日とは言わない)書くかもしれない。

理念と現実というものがある。
現実の中で現実を生きるのが市井のヒトという事になるだろう。理念の中で理念を生きるなら、そしてそれができるのならそれは世捨て人だろう。テレビ番組の『銭形金助』なんかにはそんなヒトが時に出てくる。
理念の中で現実を生きることが宗教者なり学者の生き方であるとすれば、現実の中で理念を生きるものこそが社会を推し進めるエリートの姿であるとは言えないだろうか。
現行の日本国憲法は“平和主義”をその基本理念として持っている。つまり「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と来たわけだ。
もとより国際社会なんてものは午前三時の池田公園(新宿歌舞伎町)みたいなもので、ここに空手で乗り込もうと言うわけなんだ。
市井の者が世捨て人宜しく理念の中で理念を生きようがそれは自然な姿だろう。非武装中立だろうとなんだろうと好き勝手に言っていれば良い。全く逆に現実の中で現実を生きようとも構わない。しかしエリートはどうなんだろうか。現実の中で理念を掲げて生きることがエリートの矜持、存在意義、レーゾンデートルというものなのだとしたら、憲法の掲げる“平和主義”なんて理念は空理空論であって現実にそぐわないと、理念を捨て現実に帰っていくのならば市井の者と比べるところがないではないか。
つまり、現実の中で理念を実現化する努力、そしてそのプランニング力と行動力がエリートの条件なのではないだろうか。
このなんでもありの野獣のような国際社会という現実に対して、“平和主義”なんて理念を掲げるというのは確かに大風呂敷に過ぎるだろう。しかし理念なくしてなんのエリート足り得るだろうか。

◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

戦力による威嚇による「国際平和の維持」は一人勝ち絶対優位を誇る米国ですら実現不可能だ。少なくともコストパフォーマンスが圧倒的に悪い。
どのような高価な防衛網もナイフ一つで、または我が身を起爆剤とする者には無力だ。
つまりは、人間の強いモチベーションの前では意味がない。(おお、危険なテロルの有効性を言っているなぁ、自分)高価な防衛網なんて物は、結局葉巻を咥えたデブをより一層太らせる効果ぐらいしか意味がないことだろう。
必要なのは、このテロルの有効性を減ずる事だ。この強いモチベーションを脱力化する努力(プランと行動)だろう。
彼らテロリスト予備軍に生きる事を病む程の疎外感を与えないような社会の解放性、そして底上げ。
強いイデオロギーと強いイデオロギーの間に、緩衝帯を設けられるような豊かな社会の実現。(つまり、強いイデオロギーの存在を抑圧しても無理だ、多分、その抑圧が強ければ強いほどイデオロギーもまた強くなる。いい加減イデオロギーのこの麦のような性格に目を開くべきなんだろう。様々なイデオロギーやら宗教というものは共存出来るような努力(プランと行動)が必要なんだろう。そしてそれらが共存できる社会が、本当に豊かな社会といえるんだろう)
現実の不幸に対して、予めその成員が一端の責任(と権限)を持つ、持てる。または感じられる情報の開示と民主主義の実現、決定権へのアクセス。
これが必要なんだろう。ぽわわわ。