やっぱ宗教はあきまへんで

『「個性」を煽られる子どもたち』(土井隆義著、岩波ブックレット No.633 ISBN:4000093339)を読んだ。佐世保の女児殺害事件などに触れ、その淵源に「個性」を求められ、煽られる現在の社会状況があるのではないかという考察だ。例えばSMAPの歌った「世界に一つだけの花」に対する違和感もここに関わってくるのだろうし、2002年に文科省が配布した『心のノート』に記載されている「自分の心に向き合い、本当の私に出会いましょう」という文言が実はこの殺害事件の淵源に関わっているのではないかという論考が展開される。
その主題はおくとして、この論考と『偽満州国論』(ASIN:4309222846)や『「隔離」という病い』(ASIN:4062581094)で武田徹の展開した論考とではある点で相対する主張となっている。これについて素描してみたい。
武田は両書で「目的的時間軸の中で生きる事」の残酷さに警告を出している。翻って土井は同書で「歴史性がなく、今の「感覚」で生きる事」の危険性を浮き出させている。
まず、武田の論考を『「隔離」…』の中の「目的論の暴力」という章から抜粋してみたい。そこで武田は「ただ生きて在ることに自分自身の大きさをぴたりと重ねて生きていることができる」「生の目的として留保なしに認められるのは、同語反復的だが「ただ生きること」だけだ。それ以外の目的はすべて二義的なもの」「だが、終末論的な意味成就の時間*1の中で暮らす事に慣れてしまった僕たちは、つい生きる目的を探し、仮構し、それと照らし合わせて生きがいをえようとしてしまう」つまり「ユートピア建築」を目指してしまう。それが良い事であると見なしてしまう。この「ユートピア」がある時には「満州国」にもなるのだろうし「ハンセン病療養所」にもなるのだろう。
「神谷*2がよって立ったのは人間の人生の意味が未来において成就されるとみなすより普遍的な立場である」
理想の未来社会=ユートピアを想定する事はいけないことなのだろうか。武田は「設定された目的は所詮主観的なものに過ぎない」とみなす。そしてそれは「『主観的な夢』としての脆さから逃れられるものではない」と訴える。「そうした脆い理想像を信奉する人が、仮構性を忘れて、その唯一絶対的な正しさを主張し、自分たちとはちがう立場の人々=他者を排除してゆくことがありえる」とみなす。確かに「満州国」「ハンセン病療養所」を見ていけばそのような様相に出会う。またナショナリズムであるとか何等かの宗教的確信、またはイデオロギー的確信によって成り立つ集団にこのような姿を認めることは容易だろう。ここでは「目的的時間軸の中で生きる事」が残酷であると写るし、「歴史性がなく、今の「感覚」で生きる事」こそが必要なのではないかという結論に至りそうでもある。
これに対して土井は「歴史性がなく、今の「感覚」で生きる事」には自己の存在感を希薄にする趣があると指摘する。
更に先にも述べた「ナンバー・ワン(社会的、歴史的な価値ある自己)にならなくてもいい、もともと特別なオンリー・ワン」(世界に一つだけの花)という思潮がある。ここでは社会的な広がりであるとか、歴史的な長さであるとかは期待されない。誰しもが「もともと」自分の中に内在している「オンリー・ワン」の価値を持っているのだと語られる。ここでは、「本当の自分」は自己の中にあるのだという内閉が肯定される。しかし、その内閉なるものは元々希薄な根拠しか持ち得ない。その為に一見矛盾するようだが自分の中に「オンリー・ワン」の価値があるのだとみなしたい現代の子どもたちは同時に他者の承認を欲求する。その承認も普遍的な社会性であるとか、歴史的な正当性などはいらない、あくまでも友達同士の内閉した社会(世界?)の中での承認で充分なのである。ここにおいて彼等/彼女等の視野から「社会」は排除される。「その外」は全く自分の関心領域には入ってこなくなる。
「歴史性がなく、今の「感覚」で生きる事」を為すものにとって、「素のままの自己肯定」をしてくれる空間だけが価値あるものなのであって、その外に対する関心は必要が無くなる。
この「外に対する無関心」は「目的的時間軸の中で生きる事」を為すものにも見られる。理想を掲げて生きているものたちは、その目的を与えてくれるもの、敢えて言えば煽動者に率いられ関心空間を形成する。そしてこの時「理念が情動になる」という良く見られるねじれが起きる。どのような宗教、イデオロギーであれ、それが為す酷薄な異教徒に対する態度はこのねじれの後に起きる。
つまりここでは、「歴史性がなく、今の「感覚」で生きる事」も「目的的時間軸の中で生きる事」もともに、外に対して開かれなくなった時点で、あたかも酸素を失った密閉容器が嫌気性の細菌に犯されるような腐敗の*3構図が看て取れるようである。

自分の中に内在する価値(まあ、わたしとしては「そんな物はありゃしない」と断言したいんだけど)であるとか、理想、理念、イデオロギー、宗教、萌え対象、なんでもいい。そこに自己の立脚点を起き、他者に開かれなくなった途端に狂気の歯車は回り始めるんだろうなという簡単な結論を持つ。

*1:なにかの理想=ユートピアを仮構し、そこに生きていく生き方は、その目的が達成された段階で「終末」を迎える。

*2:神谷美恵子精神科医、作家、翻訳家。ハンセン病と向き合い、キリスト教的な人道主義に溢れたエッセーを残す:参照

*3:嫌気性の細菌に犯されるのを「腐敗」って言ったっけか?