オペミスで何行か飛んだ、許さん

金子勝児玉龍彦の『逆システム学』(ISBN:4004308755)を読んだ、結局のところ「複雑系」の援用と言うことで、更に具体性を持たせたということなんだろうけど、金子の具体的政策に付いては若干の違和感が残るものの大筋では納得の行く話しだった。経済学と生物学の学際的協働って事で、日本版サンタフェ研究所というノリなのかも知れないけれど、両者がともに様々な特性を持つ要素の複雑な接合を扱っているからにはこのような結論に至るのは至極当然の結果という気がした。そんな中で金子の提示する政策に違和感を覚えるのは紙幅の都合上説明不足は致し方ないとしても、やはり牽強付会の気味は避けられないんじゃないかという気がしてならなかった。
例えば、今ホットな話題としての郵政民営化にしても、それが無効か有効かは決定論的には語り得ない気がしてならない。それよりはこの本にも触れられていた「制度の束」を有効にする為に、全ての情報を開示させる事が最も早くて有効なのではないかという気がした。
この「制度の束」という概念は非常に興味深く、様々な社会は様々な形で「制度の束」によってバランスを保とうとしているとでも考えれば迅速に理解できるんじゃないんだろうか。法であるとか慣例、または経済的な損得(価格)といった目に見える「制度」だけではなく、それがバランスを崩そうとする時には時に噂話であるとか非合法な「制度」が導入されて社会はバランスを保とうとする。一つの「制度」を変更する際には常に何等かの社会的バランスが崩れるわけで、それを補完する別の制度が生まれないと社会は死滅に至る事もあるというわけだ。確かに何等かの「制度」が作られる背景には、逆に社会がバランスを崩しており、そのバランスを取る為に作られるのが「制度」であるという見方も出きるのだろう。官僚様などは常にそうしていると胸を張られるのかも知れないけれど、ソ本当にそうなんだろうか。という気がしてならないね。
同時に島田裕巳の『創価学会』(ASIN:410610072X)も読んだのだけど、島田が指摘する日本の戦後社会を補完する「村」としての「創価学会」という「制度の束」を考えてみると、この巨大宗教団体が何故今のような形になったのかが見えてくるような気がするし、更にこの先に一体何があるのかも見えてくるような気がする。確かに島田が指摘するように「池田大作」という一代のトリックスターを弄り、揶揄するだけではこの次にあらわれてくるものを把握しそこなう事になるだろう。そこにあるのは頑強な「村」であり、日本における原初の力強さと恐ろしさを同時に秘めているわけなんだろう。
更に続けて武田徹の『偽満州国論』(ASIN:4309222846)と『「隔離」という病い』(ASIN:4062581094)も読んだわけなんだけど、なかなかにエキサイティングだった。かたや「満州国」という歴史を扱った思索であり、かたやは「ハンセン病」を題材に更に日本における「隔離」という政策に焦点を当てたルポ+思索である。両者は一見全く異なるフィールドのように見えて実は同じテーマを奏でている。1931年、満州事変が起きた年に初めての国立ハンセン病療養所が開設されたのは偶然とは言えない。この両者を見つめる事で日本という社会がどのように「ユートピア」を夢想したか、日本人にとってどのような「制度の束」が「ユートピア」足り得るかが見えてくる。面白いのは両書において武田は吉本隆明の「共同幻想論」を解体し、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を援用し、フーコーの「牧人権力」を引いているが最後の着地点に「義理と人情」を持ち出している事だ。「逆システム学」的に言えば、様々にハードな制度を持ちこんだところで、そこに「義理と人情」が無くなれば差異を圧殺する不寛容な社会となる。しかし「感染を恐れる人情に対して、あえて共存を行おうという人情が優ってそれを行う。そうした流れこそ個人の自発による自然な行動なのであり、共存する社会を柔軟で強いものにするように思う」(「隔離」という病い:p.224)
テロとの戦い」「不良外国人の跋扈」「何を考えているかわからない若者」これらを「恐れ」過剰な防衛に走る姿こそ危険を招く。その姿をマイケル・ムーアは「ボウリング・フォー・コロンバイン」で米国とカナダを対比させて描いてみせた。そう言えば先ほども石原都知事閣下が「地下鉄に天然痘でも撒かれるようなテロが為されたら超法規的な措置を取る」と勇ましい事を言っていた。(ちなみに今更ながら大塚英志の『サブカルチャー文学論』(ASIN:4022578939)も読んじゃったわけだけど、これを読んだ後でああいった石原都知事閣下の勇ましい発言を聞くと、「どうせこんな事言ったって大向こうから拍手が起きるだけで、実際には起きはしないだろう」という安心(平和ボケともいう*1)と甘えの姿*2がかいまみえて微笑ましくもある)
イスラム原理主義者だろうと、不良外国人だろうと、何を考えているか判らない若者だろうと共存を図っていくのが「都市」ってもんだろう。そして、その多様性こそがこの文明を柔軟で強固にしていくのだろう。この多様性こそが様々な「制度の束」であり、それを内在させ、潜在させていく事こそ計るべき方策であり、それを阻害する恐怖に打ち勝つのが知性というものなんじゃないんだろうかね。

*1:だってだな、地下鉄に天然痘を撒くバカが発生する確率よりも余程地震の方が確率が高くない?

*2:尖閣諸島の時でしたっけ、後難を恐れて上陸は見合わせたのは。更にちょっと気にそぐわないと議席すら放擲するわけなんだから。何か「責任」を背負う立場になったら一目散に逃げて自己正当化の言葉を並べ立てるんでしょうね