「思想なんかいらない生活」という思想

思想なんかいらない生活

勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』(ISBN:4480061797)という本を読んでみた。俎上に上げられているのが竹田青嗣加藤典洋橋爪大三郎小浜逸郎であったり、柄谷行人蓮實重彦という大物であったり、福田和也大澤真幸というところであったりする批判本なんだろうけど。いしいひさいちの『現代思想の遭難者たち』(ISBN:4062090031)の方が数倍面白い。ネタが新鮮な分は価値があるかもしれない。いしいひさいちのそれが料理屋の料理とするならば、この本は川原のヤナ場という感じかもしれない。
その他に姜尚中小熊英二にも触れられているけれど、これに関しては非常に違和感を感じた。確かに勢古の言うような思想に対する姿勢は理解できる。しかし、日常生活に退避してしまっているうちに柳川鍋のどじょう宜しく煮上げられる危険はないのだろうか。
一例を挙げるならば勢古は「国は老人福祉政策を手厚く考え実施する義務がある」というが、そう言えるだけの裏付けは一体どこから来るのだろうか。それが「ふつう」だからだろうか。しかし将来に渡ってはどうなんだろう。いつ「ふつう」が子供が生まれたら食い扶持を確保する為に老人を裏山に捨てることに変わらないといえるのだろう。
また政治家、学者、国民それぞれに自分の仕事があるから「マニフェスト」を作るのは政治家の仕事であっても、それを読むのは国民の仕事ではないと言う。確かにその通りで説明責任というものはある。プロは顧客の理解できる言葉で説明をする責任があり、それができなければプロではないだろう(という規定も一つの思想なわけだが)。しかし、先の参議院選挙で非常に判りやすかった公明党のパンフレットが実情を表していないものであった事も事実だ。
任せっぱなしには出来ないし、それなりに嘘を見分けなくてはならない。
ところで、この本は『樹が陣営』と絡んでいるようだ。『樹が陣営』の活動というのは、確かに足下を照らしていくような話しであって、それは理解できる。けれど、それが必要な批判まで押さえ込む結果になっているのではないかという疑念がぬぐえない。

生活において、その不全感を再考し減らすべき圧力を減らす事は必要な事だろう。しかし、他に対しては突くべきは突かなければわたしたちは豆腐のなかのどじょうになってしまうのではないだろうか。