創造性を育む?

今日、あるところであるイベントを見てきた。どういうイベントかというと、「子供たちの創造的なデザイン力を育む」というイベントなのだそうだ。どういうことかというと、あるデザイナーがデザインした昆虫の「部品」が紙に印刷されている。足だとか頭だとか羽が独特のタッチでデザインされている。これを子供たちが切ったり貼ったり組み立てたりして独創的な昆虫をデザインするという催しだったようだ。デザインと一定の機能という事を考える事は事物を見る事に繋がるらしい。まあ、それには異論は無い。確かにデザインをしようとすれば、物の性質。つまり難しく言うと物性というものを理解しない訳には行かない。
足は何故手よりも太いか。魚の形はなぜ楕円になっているのか。物を収める箱が一般的に三角形じゃなくて四角形なのはなぜか。物性は機能に制限を加え、機能がデザインを要求する。
確かにこういった催しは子供たちに新しい物の見方を教える良い機会となるのだろう。
ところで、わたしはレゴ(LEGO)と言うのが余り好きではない。
その最初の理由は多分「高かった」からだろうと思う。わたしの子供の頃、すでにレゴ(LEGO)はあったのだと記憶しているが、それは「百貨店」で見る物であったように記憶している。
その代わりにわたしの家には『ダイアブロック』という玩具があった。わたしが『ダイアブロック』に嵌ったのは比較的高学年になってからのような記憶がある。その代わり徹底的に嵌った。確か、同年代の子供たちが「卒業」するのを聞きつけると、わたしは色々な手練手管を使って彼等、彼女等の持っていた『ダイアブロック』を引き取った。こんな活動が効を奏して我が家には恐ろしいほどの『ダイアブロック』が集まった。そうなってくると調子にのってわたしは、またまた恐ろしいまでの代物をこしらえ始めた。帆船、日本の城、何かよく判らない砦(多分、西部劇に出てくるような騎兵隊の砦。但し実際に子供が中に入っていられるサイズ)こうなると親も馬鹿で隣近所にまで声をかけて集めまくり、子供たちが遊びに訪れた。
『ダイアブロック』というのは一定のブランドのようで、弱小メーカーが互換性のあるパーツを色々と出していたようだ。デファクトスタンダードだったんだろう。ところが、このスタンダードに準拠していない部品が紛れ込んだりしていた。それがレゴ(LEGO)だった。
レゴ(LEGO)は接合部の凸が少々小さくなっており、それでいて接合部の造りが良いせいか、一旦組み立てると頑丈な構造を作ることができた。また様々な形態があり、ちゃんと製作者の意図通り組み立てれば出来上がった作品はきれいなシルエットが出た。やはり子供の事、それも男の子ということで、人気のあったのは色々な乗り物なのだが、例えば『ダイアブロック』で作ったロケットは先がガタガタした階段のような形状になった。それに引き換えレゴ(LEGO)で作られたロケットは先端から惚れ惚れするようなシルエットを作ることができた。
しかし、わたしはレゴ(LEGO)が嫌いだった。
わたしは出来上がった物をそのまま眺める事は好きではなかった。出来上がった作品はせいぜい一日で破壊され、次の作品にとりかかるのだ。日本の城を壊した時には親から怒られた。
つまり作ることが目的だったのだ。そして何か困難なテーマがあるとそれに挑戦する事が好きだった。可動式の門、球体、スライドする構造体。
このような作業の中でレゴ(LEGO)は邪魔者でしかなかった。予め決められた用途に特化した形状は、他の用途では邪魔でしかなかった。少々のシルエットの歪みやらでこぼこなど、子供の想像性の前では無いに等しい。逆にその形状が実体に近いほうが、想像力はスポイルされるように感じられてならなかった。

今日のイベントはこのレゴ(LEGO)じゃないんだろうか。子供たちに自由な創造性を発揮させるならば、真っ白な紙を与えれば良い。予め有りものの部品を与えるというのは創造性でもないんでも無い。たんなる模倣であり、後をなぞるだけにしか見えない。そこでは大人たちの想定する「創造性」に到達した子供が「良い」とされているように見えてならなかった。

子供の創造性を育むのは「与える」のではなく「渇望」だろう。少なく限られたリソースの中で渇望するものを代替えしなければならない、その欲望が創造性を生み出すのだろうと思う。そしてその創造性は大人たちの理解できる範囲を超えている。大人が理解できるような幅に収まるようでは創造性など無い。
そもそも、このような渇望感、代替品をでっち上げるモチベーションなど、誰もが持つものでもない。持つ必要も無い。そういう意味では創造性などといった代物は誰もが持っているものでは無いだろう。また、創造性があるからとそれが即ち良い事、生産性に結びつくという事にもなりはしない。

しかし、与えられた創造性は自らを枠に収めようというダイナミズムの乏しい物になるのだろう。
(ここらへんで、時間が来た)
高コストの教育ではこのような「創造性を育む教育」が施されているのだろうか。(今日の風景をみるとそのような推測が沸き起こる)しかし、それは枠の中に押さえられた「創造性」でしかない。母親が「○○ちゃん、これはここでしょ」と手を貸すような「創造性」はダイナミズムに乏しい。
(タイムアップ)