微分的または積分的「真実」

id:samoku:20040817#p1

日本語は論理性の欠如した言語だと言われる。実際には充分論理的な記述、言明は可能なのだろうが、それを操る著者、話者が論理的に主張を組みたてなくても「言葉」として成り立ちうるというところが問題なのだろう(id:magisystem:20040816#p1)。また、逆に省略の美といったものが尊重もされる。敢えて語らない事、言葉の先にある何かを想像させることは、言葉によって語るよりも広がりと奥行きを持たせることになるだろう。このような文化の中で短歌であるとか俳句が詠まれ、単なる文章であっても行間を読むという文化が生まれた。
報道という場においては、本来語られる事だけが情報として扱われるべきなのだろうが、時間的制限、空間的制限、そして制度的な制限の為に語ることができない情報を「行間」に差し込んで、それを汲み取らせるという事も行われる。
これのもっともポピュラーな例はニュースステーションで久米弘が判りやすく行った身振りなどだろう。これなどはあまりに「判りやすすぎて」つまらなかったのだが、一部のヒトにとっては非常に有効なレクリェーションであったようだ。
また、全く書かれない事が物事を雄弁に語るという例もある。わたしとしては最高に楽しかった森前総理の頃の「首相の一日」もこれに当たるだろう。わたしは毎朝ニコニコ、ハラハラして眺めていたが、最後には巷間に上ることとなってしまった。「わたしが何をしたというんだ!」「何もしなかったからでしょ」という戯画世界が政治面というお堅い(?)紙面で展開されている様は最高のエンターテイメントだった。
話しがちょっとずれました。
紙面であるとか、テレビ報道などは「有限な資源である」という指摘はまさにその通りで、であるから「公平な報道」だの「真実の報道」なんてありえないという事は、ほとんど当たり前の前提で良かろうと思える。そもそも事件やら出来事における「真実」というものは何かというところまで考えを及ぼせば、そこに唯一の真実なるものがあるなどとも思えない。立場、視点によってそれぞれの当事者に「真実」は有るのだろうし、更に掘り下げれば、その当事者が自覚する「真実」なるものすら実は危うい幻想に近いものだという事は、誰だって自分自身の身に起こった出来事を虚心に省みれば、すぐさま思い至ることだろう。そこに容易に「真実」を振りかざせるという事自体が、すでに「真実」を振り上げるものの内省性の無さを証拠立てているように思えてならない。
優れたドキュメンタリーであるとか報道は、真実を伝えるものなどではない。事柄やら事件の真実など伝えることも、そもそも人間の知見で得ることもできはしない。どうしたって一面的になってしまうに決まっている。しかし、そのある一面での真実に肉薄しようとするもの、それが優れたドキュメンタリーであるとか報道なのだろう。
この「有限」というキーワードを得ると、つい最近の別の話題を思い出す。そう、「有限な社会的リソース」の話題だ。
「社会的リソースは有限であるのだから、社会が助けるものも自ずと選別される」という話題にわたしは反発した。これは当然で、選別に当たって「社会的に有益、無益」などという選別が可能であるという思慮に欠けた議論は虫唾が走る。まるで渡部昇一の「神聖な義務」ではないか。(こことか参照)
そもそも社会が予め将来の社会に対して有益な要素を選別など出来る訳が無い。出来ると思える事自体がその者の知的限界を雄弁に語る。社会にとって出来ることというのは、多様な要素を保持することなのであって、そのバリエーションを狭める「選別」など倫理的以前にすべきでない。それが判らないから山形は馬鹿者だと言った。
そして、ここからが今日の話しなのだが。報道などの現場において、メディア自体は有限である。そこに「真実」などというほとんど無限なものを詰め込むことなど出来はしない。社会的リソースは有限である、であるので社会はなんでもかんでも、誰でもを助けることはできない。この両者は形式的にも相似なんだろう。
報道において、どうせ真実など伝えることは出来ないのだから、適当にヤラセでも予見にそってでもネタを埋めればいいやというような報道は肯定されるべきではない。
社会的リソースは有限なのだから、どうせコンなヤツラ助ける必要もないや。などという行政も国民の信を得ることはできない。
報道において、真実を伝えることはできない、しかし、その側面でも、そのかすかな面影だけでも得ることは出来ないか。と、もがき苦しむなかで「見よう」とする。「知ろうとする」その姿勢が必要なのではないだろうか。勿論、そこで「見たい」「知りたい」という欲求は極めて主観的なものに留まる。留まるからこそ、ドキュメンタリーというものはこの「見たい」「知りたい」とする主体である取材者すら浮き出させるものなのだ。『ゆきゆきて神軍』においては奥崎謙三を描きつつも、原一男自身が浮き出てくる。『A』『A2』においてはそこから森達也を知ることができる。彼らが彼らの欲する「真実」へと登る様子を覗き見ること、これがドキュメンタリーを見る面白さなのではないか。
有限な社会的リソースを如何に有効に使用しようとするか、どのように配分しようとするか。その苦闘が行政にも求められているのである。
「問題は神になることではなく、神に如何に近づいたかなのです」