46歳の夏目雅子さんに会えるか

夏目雅子ひまわり基金


6日の文章についてご意見を頂きました。やはり、消化しきれていない問題を消化しきれていないまま書いたので、より一層わかり辛い文章になってしまったようですね。「ドナー登録をしてみて、本当に適合者があらわれたら背負わなくちゃならないリスクがあるから怖いよ」というのは、確かにそのとおりです。だからといってそのレベルで臓器移植、骨髄移植を否定しようとは思いません。逆にわたしの文章を読んだヒトが騙されてドナー登録してくれるように願いたいほど骨髄移植の必要性は感じています。
それだけに、現在の骨髄移植の在り方、骨髄バンクの在り方がこれで良いのかという疑問が沸くわけです。「ドナーが負うリスクが十分ドナーに説明されないおそれがある」ということもある側面ではその通りだと思います。しかし、それは骨髄バンク側の不備であるとも思えません。どこまでも骨髄バンクがドナーの意思を汲み取れるか、これにはおのずと限界があるのでしょうし、結局リスクを背負い込むドナーにとって、痛みを分かち合える者など居ないのです。
そうです、居ないのです。
しかし、骨髄バンクの「良心的な」職員が「誠心誠意」痛みを分かち合い、ドナーを支えようとしていることも事実でしょう。けれどそれも限界があります。
ならば、誰かがドナーと利害を一致させて利益追求のできる道筋を確保するということが必要なのではないか。そのように思った次第です。

結局、現在のところドナーはここまで求めません。求めるようになっていません。少々の負担はレシピエントの喜びを思って引き受ける負担とされているように感じられてなりません。このように、他人の喜びを自分の喜びとして受け入れられる「良心的な」倫理基盤に乗った者だけが「ドナーとなれる」という暗黙のルールがあるかのうように
感じられます。移植医療という現場。または骨髄バンク、更にドナーという「社会」は上記のような「良心的な」倫理基盤で囲われた「ムラ」です。その価値観に合致した者だけが入ることのできるムラなのではないでしょうか。
このムラの論理が成立していれば、わたしの危惧が理解されないのもわかります。また、それが空論の危惧である事も判ります。しかし、それによってドナー登録者数が伸びない理由も、同時に理解できてしまう。そのように思えるのです。46歳の夏目雅子さんに会えるようになるにはまだ、道は遠いのではないでしょうか。