贔屓の引き倒しは馬鹿のやる無責任である

創9・10月合併号に「雅子妃騒動が浮き彫りにした象徴天皇制の内実」と題して大塚英志香山リカの対談が掲載されている。
雅子妃という押しも押されもしないキャリアウーマンが、やはり押しも押されもしない天皇家という「家」に入って「問題」が発生した。ここからは働く女性と家、結婚、出産と少子化、女性の生き方、男性の生き方という様々な問題が汲み取れるのだろうとおもう。
また、そのように解体されている「家制度」の下にある日本において、天皇制というものもどうあるべきか興味深い論点が呈示されている。
そんな中で、わたしが常々主張している論点を大塚も提示しているので書き出してみたい。

大塚 今回「雅子さんかわいそう」と同情するんだったら、じゃあ自分たちが天皇を断念すれば解放してやれるんだからすりゃいい。できるんだもの、こっちが。つまり、天皇家を人質にして彼らを形の上で必要としているのは我々なんだから、解放してやる権限は国民主権の国家において、しかも憲法改正国民投票権を持つ我々にある。かわいそうだと思うんだったらそこをやってあげればって。逆に「もし天皇という超越的なものがなければ、僕たち日本国に帰依できません」と思うんだったら、じゃあ真剣に支持してやりゃあいい。あいまいなまま生身の肉体を持った人間を形骸化した伝統の中に置いておくのは、とても残酷だよね。

「ヒトは生まれながらに平等である」という前提を持ちながら、特定の家族に参政権も、政治的自由も、職業選択の権利も認めず、移動の権利すら与えず、更に姓をも与えないというのは、これは深刻な人権侵害なのではないだろうか。どうなのよ、この辺>アムネスティ