そして、ヒトの存在もまた幻想である。

『自己決定権は幻想である』小松美彦 (ISBN:4896918339)

アウトラインから話すと、洋泉社の新書は面白い。なんとなくPHPの出版物とオーバーラップする部分があるんだな。PHPに関して言えば大抵底が浅いので直ぐにネタがばれてしまうわけなんだが、洋泉社の新書はそのあたり一ひねりが効いていて、うかうかするとそのトラップに引っかかってしまいそうになる。
この本についても、著者の小松とわたしでは視座はさして変わらないだろうと思う。問題領域についての理解も彼のほうが深いことだろう。そりゃそうだ、あちらの方は「プロ」なんだから、そんな事実誤認があればこんな脱力することは無い。

小松は「自己決定権」という概念が「国家財政にかかる福祉政策のコストの圧迫を軽減するために、福祉国家として抱えこんだ国家の課題を、都合よく個人に転嫁、皺寄せしようとする動きがはじめからある」と、安楽死であるとか脳死・臓器移植を例示して批判する。丁度、山形の社会リソース論と同じ論点を批判的に取り上げたと言うことなんだろう。
更に、自己決定権批判の根拠として4点を挙げている。その1は、個人に閉塞した問題は無い。というものである。実は他の3つの根拠と言うものもすべてはここに収束するのだろうが、小松はすべての人間の問題は「人と人との間の関係性」にあると捉える。次の2は、それが優性政策に繋がる危険性があるというものだ。いわく「自己決定権が謳われるのなら当然、自己決定権を行使する能力の無い人をどうするか、という問題」が引き出されるのであり、これがグロテスクなナチス・ドイツの優性思想に繋がるのであると敷衍して見せる*1。第3として、人間の幸せというものは決して私の中にだけあるものではない。と、「わがまま」を保証してどうするのか。と批判する。そして第4として「死は所有できない」と1の個人に閉塞した問題は無いという主張に戻っているようだ。
小松は「自己決定権」と「自己決定」とを峻別し、自己決定とは何かという問いに。「よくよく考えてみれば、そういう他者との複雑な網の目の中で行われるしかないものであって、そういう意味では、純粋な自己決定はありません」「私たちの行う決定は、好むと好まざるとにかかわらず、いつも本質的に共決定であることを強いられる」と述べる。ここで本来、この「共決定」について掘り下げて語られるべきなんだろうが*2、この概念の説明は非常に不親切だ*3
小松は「共同体」であるとか「共同性」に対してはネガティブな態度を持つ。「内と外に縁取りをこしらえて、二つを区分けし固定していこうとする態度」と捉える。これについては異論は無い。そこに「同質性」を求める事に危険性を感じるのはわたしもまた同じだ。しかし小松は「関係性」には重きを置く。
「関係性の根源は、自他未分化状態のなかにある」「人間関係のすべてが、自分は自分、あなたはあなたという具合に綺麗に割り切れるわけではありません。親しければ親しいほど、具体的な人間関係はむしろ、自他が未分化な状態に向かって懐かしさをもって戻っていくものであるような気がするのです」とくる。
わたしは、この「懐かしさ」こそ危険なものであると推察する。確かに、このような「懐かしさ」は判りやすく、否定しきれない。わたし自身の中にもこの主張に対して肯定したくなる気持ちというのはある。しかしこれは敢えていえば「劣情」とでもいったものだろう。この「懐かしさ」がともすれば「同質性」を形成し、危険な「共同体」の母胎とも成りかねない。そして小松においてこの「関係性」と「共同体」の縁は未分化のままである。
実は、この境目は本誌的に未分化なのではないかとわたしは考える*4。すなわち、この論考はこの深度において矛盾を来しているのであり、そこから導き出せる「自己決定<権>批判」なるものも論理的な整合性を持ち得ない。
確かに、「自己決定権」が政治的文脈で扱われる時に、小松の提起する危険性を持つことは理解できる。なので、彼自身がその批判を続けることは有用であろうと考えるが、だからといって「自己決定権」が否定される論理的根拠を持つとは思えない。
そもそも小松がこの論考に至る起点はなにかというと彼自身が持つ「死への恐怖」にあったのだろう。小松は死を否定する。「人は死んではならない」とまでいう。
わたしは死こそが常態であって、生は理解不能特異点ぐらいに考えている。人は死ぬのであるし、そこには何等不思議も無い。小松は中井英夫の言葉を拾って「人は死んだら、残された者の心の中に行く」というが、申し訳無いが、文学的には貴重な言葉だろうが、概念として肯定などできない。わたしとしては、入ってこられても迷惑だし、持って帰られるのもお断りしたい。
実は小松は判っているはずだ。何が。「揺らぎの存在」をだ。
小松は「倫理」というものを捉えて次のように語る。

私は、倫理というものを、何か問題が起きたときに、自分を自分の周囲の人たちとの関係のただなかで、混乱や葛藤に苛まれながら、揺り揺られていく状態そのもののことだと考えています。定言としての倫理が仮にあるとしても、混乱や葛藤のなかから浮かびあがってきたものでないといけない。だから、産む産まないの問題でも脳死・臓器移植でもクローンでも、錯綜する問題のなかで、個人や人間が苦しみながら語りあっていかなければいけないわけだし、その場にしか本当の倫理はないと思うのです。

倫理自体が人と人の間における揺らぎの中から浮きあがるものだとするのならば、人間の存在、そしてその生であるとか、死もまたその人とその人を取り巻く環境の間における揺らぎの中から湧きあがるものである。プリゴジンのいう散逸構造のように生物学的には継続される新陳代謝の結果として生があるのだろうし、社会的にも個人と社会の間における「権利」の揺らぎの中にその実体がある。それはちょうど「国土」のようなものだ。この世の中に正確な国土地図などありえない、その境は常に波に襲われ、時々に揺れ動く。社会の中の個人もまたそれと同じで、常に個人と社会の間で境は揺れ動く。
この時、個人が「自分」とはなにか、特定する為にはどこかで不確かな決定を下す必要があるのだろうし、それを引き受けるか、保留する必要がある。その時に必要となる概念が、個人の側から捉えれば「自己決定」となるのであろうし、社会の側から捉えれば「自己決定権」になるにすぎないだろう。自己決定権が本質的にこのように揺れ動く物であると捉えて見れば、それを否定するのではなく、その揺れ動きにこそ着目すべきなのではないだろうか。


*1:このあたりがおっちょこちょいの山形が踏んだ地雷だろう

*2:そして、それを行えば以下の論考は必要ないのかもしれないが

*3:彼の他の著書でも読むべきなんだろうか

*4:そして、洋泉社の独特のトラップはここにある、つまり共同体への郷愁とでもいったものだ。