山形バカ決定。

今月号(8月号)のサイゾーを読んだ。山形はまだやっている。何を?例の「国家リソース有限論、有効利用論」だ。M2から批判されて、先月号でそのM2の批判に対して山形が再批判を加えたのに対して宮崎哲也からメールが届いたそうだ。つまり「国家リソースが有限なんて承知しているが、それを建前として言っちゃいけない」てな具合に。
実は「建前」でもないんだけど。こう言うのを「理念」とでも言うのだろうが、なぜ山形は判らないかな。でも、判らなくてもまだ「バカ決定」ではない。
山形は更に、所謂「イラク人質事件」の五人に対して批判は起きたが、その後殺害された橋田さんには批判は起きなかった、これを取り上げてこう言う。

社会は全体として、人のフリーライダーぶりをそこそこ評価できるだけの能力を持っているのだ。もちろん、それは完璧じゃないから注意が必要なんだけれれど、でもそれを変に否定することもない。
(中略)
ぼくに対する批判の多くは「社会に有用なのか社会に寄生しているのか、どうやって判断するんだ」ということだった。でも、ぼくはそれが区別できないと考えること自体がかなり変だと思っているのだ。

と来た。
簡単な反論としては「それが区別できないと考えること自体がかなり変だと思っているのだろうが、それは完璧じゃないから注意が必要なんだ」とコピペで済む。
山形はあの五人が「これからも何ら役に立つことはしないだろう」と断じているわけなんだが、これこそ蛮勇というべきで、「注意すべきこと」だろう。山形に問いたい、「そう断言できる根拠はなにか?」
こんなアヤフヤな断じ方が「人のフリーライダーぶりをそこそこ評価できるだけの能力」と認められるのだろうか?ねえ、じゃあ、身体障害者はどうなの?知的障害者フリーライダーではないの?ロマ族は、ユダヤ人は如何でしょうか?
もう一度言うが、「それが区別できないと考えること自体がかなり変だと思っているのだろうが、それは完璧じゃないから注意が必要なんだ」

ちょっと話しはそれるが、あるところで面白い言葉に出会った。

「思考停止」という言葉も嫌いなようですが、それも同様に、「自分だけは思考停止をしない」という無謬性を完全に信じてるから出てくる言葉でしょう

「思考停止」に陥っていれば、それが「誤謬」に繋がるだろう事例は多いだろう。しかし、思考を続けていれば「無謬」であるとはいえない。思考を続けていれば無謬であると、完全に信じられるとしたら、その捉え方自体が矛盾を来している。というか、この場合「無謬性」という概念を持ちこんでいる事がこの言葉を繋がりの悪いものにしている。

「思考停止」を厭う理由は非決定性、または決定の困難さを知っているからだろう。橋田さんは社会に有用なヒト、あの五人は今後も「何ら役に立つことはしないだろう」と断じる事の困難さを知っているわけだ。でも、これでも山形をバカ決定とした理由ではない。

何度も言うが、先のイラク人質事件において「有限な国家リソース」を配分したのはデモ隊でもなければあの五人でもない。小泉政権であり、外務省、または官邸なわけだろう。逢沢を「現地」に派遣して。ではこの「有限な国家リソース」の配分が有効であったか否かを何故問わないのだろうか。
また、山形はそもそもNGOだのNPOだのが嫌いなんだろう?ならばそれをあの五人に押し付けて語るのではなく、具体的に「酷いNGO」を挙げて語れば良いじゃないの。
このそもそもの論点を外したまま浮き上がった論点を糊塗しようとするから、「バカ決定」という次第である。もちろん、どの程度「バカ」かは決定困難ではあるが。