「生体」は「環境」と戦わなければならない。

 われわれが食べる食物は、消化によって単純な小さい分子に分解される。そして、われわれはそれを吸収し、再び組みたててわれわれ自身の複雑な分子種に変える。なぜわざわざ、このような形態で物質とエネルギーを取りこむのだろうか?シーザーサラダにつけ合わせるレタスの葉に近づき、「私のものになれ!」と叫び、それと融合しないのは、なぜか?ただ単にわれわれの細胞をほうれん草スフレの細胞と融合させ、それぞれの物質代謝の財産を混同しないのは、なぜか?言い換えると、わざわざ分子をばらばらに分解して、再びそれを組みたてるにすぎない消化という無駄なこのをなぜ行うのであろうか。
 われわれが食事と融合するのではなく、食事を食べるということから、ある深遠な事実が明らかになると私は信じている。生物圏そのものは臨界点*1を超えており、われわれの細胞はまさに臨界点の手前である。万が一われわれがサラダと融合したとすれば、この融合によってわれわれの細胞の中に生じる分子の多様性は、超臨界的な大爆発を起こすであろう。目新しい分子が爆発的に増えると、不幸にもその爆発を起こした細胞は、すぐに死に至るであろう。われわれが食べるという事実は偶然の出来事ではなく、われわれの物質代謝網に新しい分子を取り入れるために、進化が出くわしたであろう多くの考えられる方法のうちの一つである。食べることと消化は、われわれが生物圏の超臨界的な分子の多様性から身を守る必要を反映しているのではないかと私は思う。(スチュアート・カウフマン「自己組織化と進化の論理」p.225)

「生体」とは「環境」というカオスの縁散逸構造として現れた一つの特異点である。「生体」は「環境」と相互作用、交換を行いながらも、それ自体を「守ら」なければ、そのものの存在を維持することができない。


*1:同書 p.210より「生物圏における分子の多様性自体が分子の種類の爆発を引き起こす、という可能性である。多様性はそれ自身を餌とし、さらに進行する。お互いに、そして環境との間で相互作用している細胞は、新種の分子を作る。そして、その分子は一連の激しい創造の過程で、さらに他の種類の細胞を生む。この激しい過程―私はこれを『臨界点を超えた振る舞い』と呼ぶことにする―の源は、すでにみた触媒反応の連結網における相転移と同じような現象にあり、そもそもその相転移が、分子を生きた有機的組織体にしたのであろう」