火・水と風

Winny の一側面として。その「過剰」を考えることができるかもしれない。今回の Winny 騒動で実際にネットワーク内のトラフィックが減っているという報告もある。また、Winny で盛んにファイル交換を行っているものは、「そのコンテンツを手に入れる(HDDに入れる)事が目的となっていて、それをろくに見たり聞いたりしていないんじゃないか(つまり、目的と手段が転倒している)」という観測もある。
「過剰」でなければ刑事的な違法性を問われなかったのではないか。ということを言いたい訳ではない。闇でひっそりと行われていようと、違法なものは違法で、それを訴追できれば警察は訴追するだろう。
そうではなく、あまりに「過剰」である為に、その違法性に鈍感になっているのではないだろうか。現行の著作権法が社会、文化的に見て合目的的であるかについては議論がある。かく言うわたしはこの諸法が過剰な保護に当たり、却って文化的な障害となり、社会的にも合目的的ではないと思ってはいるが、だからといってその法を破れば当然の事ながら違法性は免れない。
また、もし現状の Winny のありようをそのままに放置して、その使用を無制限に許すとすれば、結局コンテンツクリエイターのインセンティブをスポイルし、コンテンツそのものを枯渇させてしまうだろう。
この姿は何かに似ている。
「自然」が好きだからと、巨大な4WD車で森に乗りこむ者がいる。彼等はその森の中で「自然」を満喫することができるだろうが、4WDの環境負荷は高く、その「自然」そのものは重篤な影響を受けてしまう。
必要以上の「欲求」、無制限な「欲望」が、その欲望の対象そのものを危うくする。
まるで「(いなご)」だ。
ここで「儀礼的無関心」の話題を思い出す。
特定のサイトをひっそりと眺めていたところ、そのサイトを巨大サイトに紹介され、ひいてはそのサイトそのものが消えてしまう。確かに、いままでいくつのサイトが消えていった事だろうか。某巨大サイトとはまるで「蝗」のようではないか*1
だからといって、その「蝗」をそのまま批判はしない。わたしを含めた人類そのものが、この地球という環境にとっては「蝗」そのものなんだろう。必要な事は、己が「蝗」であるという自覚と、その無制限の「欲望」が、果たして本当に自分の持つ目的に、合目的的であるだろうかという内省だろう。

「あんたは火を使う そりゃあ・・・わしらもちょびっとは使うがのぉ。多すぎる火は何も生みゃあせん。火は森を1日で灰にする。水と風は 百年かけて森を育てるんじゃ」
「わしらは 水と風の方がええ」
映画「風の谷のナウシカ」より、風の谷の老人の独白


*1:だからといって「(狭義の)儀礼的無関心」が有効であるとは思っていない。わたし自身、わたしの行動で潰してしまったサイトもあるだろう。更に、「蝗」の集団がいるということが、人々に危険性を知らせたという側面にも注目しなければならない。