『スピリチュアル・シングル宣言』

スピリチュアル・シングル宣言―生き方


はてなであれやこれや書いたり読んだりしていて良かったと思えることがタマにある。伊田広行の『スピリチュアル・シングル宣言』(ISBN:4750317179)を知ったのも良かったと思える一つのトピックだ。題名を見ただけでは完全に腰を引いていただろう。某ページでの紹介を見て読んでみようという気になった。
しかし、この題名はちょっと可愛そうだ。わたしが求めた本屋(比較的大きな書店)でも「精神世界」に分類されていた。あの大川隆法だの「タオ」だのが並んでいる書架だ。
『スピリチュアル…』という題名でそれらの分類に入ってしまうのだろうが、これはまったく違う。完全に「社会運動」系の書籍になっている。著者の伊田もそういった類の「精神世界」に対しては懐疑的、というよりももう一歩踏み込んで批判的だ。
いや、それだけでなく。彼は既成宗教であるとか、お手軽な「癒し」だのといったものに対しては解体を求めてもいるだろう。
それでは彼の言う『スピリチュアル…』とは何か。という事になるが、それはおいおい折に触れ紹介する機会があるかも知れないが、ここでは述べない。是非読んでみて欲しいと思う。
(特に、名指しで言ってみると。id:matsunagaid:amegriff、更にお忙しいことでしょうが id:jizouid:gerageragera には示唆するところ大だろうと思われる)

政治が求心力を失っている。投票率はどんどん下がり、その隙に民意を反映したとは思えない政権が施策を進め、そしてまた国民が政治に絶望して投票率が下がる。
右傾化と言われて久しい。もう既にその段階は過ぎてファナティックな現象が現れている。「国家」を語りつつ、その実国益を損ねる近視眼的、扇情的な話題が「消費」される。
そんな中で個人は「勝ち組み」と「負け組み」という非常に恥ずかしい尺度で己を規定する。
これらの中に共通するものは、(伊田は意識的に避けてきているのかしらないが)「デリカシー」というものの欠如だろう。視点を展開して物事を捉えることができない。自分の立ち位置から一歩も動こうとしない、その知的怠惰。そして、それを恥じようともしない。
(おっと、続きはまた明日)

一言申し添えておきたい。わたしは伊田のいう『スピリチュアル…』にはそのまま同意できない。彼の視点は捉えているつもりだが、同意できない。その理由は人間の持つ<たましい>に彼がいうようなポジティブな面ばかりを見る気にはなれないからだ。
いや、もっと言うと。積極的にネガティブな部分の可能性を信じているからかもしれない。人間は光に向かってみるだけではなく、その闇に向かってみる事にもまた、価値があるように思えてならないのだ。
更に、例えば三島由紀夫の「阿頼耶識」を彼ならどう捉えるだろうか。そして、そこに至った三島の結論をどのように整理するだろうか。ちょっと、興味があった。