いただいたメールから

「俺様の王国」に対する批判で、論点が良くわからない。というよりも、退蔵コンテンツに対する考え方などは同じなのではないか。 http://kiri.jblog.org/archives/000707.html の文章は読んだかという指摘を受けた。
正直流し読みをしただけだったので読んでみた。確かに退蔵コンテンツに対する考え方は「近い」ものがあるのだろうが、若干違う。

実のところ、商業主義(コマーシャリズム)はこの手の細分化された価値体系に対する解を持たない。いわゆる資本主義の誤謬と言われるものだ。大多数の人が金を払わず、関心を持たない、時宜を逸した、役に立たないものは商売として成り立たない。商業主義は需要と供給で価格が決まると言いながら、極端に需要が少ないビジネスは本質的に不利な構造が確立していると言える。

ここの所はどうなんだろうか。商品の価値は需要と供給で決まる。それは変わらない。彼はこの「需要」を「需要者」(つまり、頭数)と勘違いしているのではないだろうか。
彼の母親の版権を持っているのがどの会社か知らないが、そこへ行ってドカン!と札束を積めば「需要と供給はバランス」する。
これへの解をあたかも Winny (だけ?)が提供したとするならばそこも誤りだろう*1
東芝EMIファミリークラブWebショップ」
http://www.toshiba.co.jp/e-shop/index_j.htm

店頭では手に入らない、レアな音楽・映像ソフトを販売(東芝EMI株式会社)

ニッチであれその需要を見逃していては企業家じゃないだろう。逆に Winny がこういった合法的な流通窓口を抑制しているとも言える。

そして、最大の彼の見落としは、確かに Winny

権利を持っているけど商業化していないコンテンツが死蔵されることは社会にとってマイナスだから、コモンズとしてこれは提供されるべき

と言う側面はあったのかもしれないが、それ以上に充分商業的価値のある(つまりは、今流行っている)コンテンツが扱われていたのではないかと言う現実から目を背けている。つまり詭弁でしかない。
問題の核心はこの私的権利と公益のバランスなんだ。そしてそれこそが「言い古された議論」なんだ*2


*1:更に考えてみよう。その音源が商業的価値が無いとしても、いつか何かの機会があるかもしれないとその権利者は死蔵するだろう、後生大事に。そこに札束を積めば「確実に」音源は手に入る。しかし、これが彼の言う Winny というシステムの中で共有されるとすると、その存在は誰が担保できるのだろうか。いつか誰かのディスククラッシュと共に消えてなくなってしまうのではないか。価格であるとか、価値と言ったものは、その存在を担保する保障という側面を持つ。なんだか、彼の論理は大学生が語る共産制を思わせる。

*2:サービス:で、だな「どっちが大切なんだよ!」とか聞くなよ。クリエイターと受益者のバランスの問題なんだ。そして流通と言う既得権を改変する問題なんだ。いままでもNAMであるとかクリ・コモとか様々な議論が提出されて、明確な着地点が提示できない問題なんだろう。簡単な解に飛びつくのではなく、一人一人が考えるべき問題じゃないか。