所有と価値

●ッ●ーボン


昨日のミケランジェロ作と思しきキリスト像とサザエボン(というか、●ッ●ーボン)から、所有と価値とか、個人と全体という事を考えてみたい。
バブルの末期に大昭和製紙名誉会長の斎藤了英(故人)がゴッホの「ガシェ博士の肖像」を120億強の価格で落札して話題になった。*1その時に斎藤は「自分が死んだらこの絵を棺桶に入れて欲しい」と発言し批判を受けた。「歴史的な文化財産をなんだと心得る」とでもいったものなんだろうか。しかし、ここでよく考えてみたい。ここで果たして斎藤が絵を自分と一緒に燃やしてしまう事は「悪い事」なんだろうか。更に、昨日のミケランジェロ作と思われるキリスト像も、所有者は公開に非協力的なようだが、それは「悪い事」なんだろうか。
絵画であるとか音楽、書籍などは価格がつくという事からもそれは財であるだろう。財であるとするならば、その所有者の判断で「消費」されても良いということなんだろう。
しかし、同時に公共の文化財でもある。とするならば、所有者の自由気ままな「消費」は許されないという事になる。
このようなクリティカルな物だけでなく、全ての文物に、公共物としての側面があるとみなす事もできる。そういえばちょっと前に自分の所有するビルを金色(黄色だったっけ?)に塗ったオーナーが周辺住民から訴えられたという事例もあった。個人の所有物といえども、所有者の気ままは許されず、公共の物としての扱いを受けなければならない。この個人に対する抑圧は無批判に受け入れるべきなんだろうか。
実は、この答を赤塚不二夫が提示しているように思える。
赤塚不二夫と言えば数々のマンガを生産する呑み助として有名だが、その天才性は江口寿史ですら遠く及ばない。稀代のクリエイターだろう。
少々前に、彼の名作「天才バカボン」のキャラクター「バカボンのパパ」と、長谷川町子サザエさんを“混ぜて”、「サザエボン」というキャラクターを作り、キーホルダーやらTシャツを売り出した業者があらわれた。それに対して赤塚不二夫著作権を管理しているフジオプロが著作権の侵害であるとして訴えを起こした。ここまでは原著作者とパロディ作者の個人と個人の戦いであり、権利の侵害関係は相互の問題であるだろう。しかし、では、フジオプロの提示したような、「著作物の囲い込み」が(狭義の)公益に利するだろうか。
少なからぬ者が「サザエボン」というキャラクターに好意を持ち、その存在を歓迎した、そしてフジオプロの対応に鼻白んだのである。この時の赤塚不二夫の対応は見事だと思われた。
著作権の問題に関しては事務所(フジオプロ)でやってください、僕は酔っ払いなのでわからないです、できれば予め言ってくれれば良かった。でも、(この「サザエボン」は)かわいいねぇ」(大意:更にわたしの聞き及んでいるところによると、赤塚不二夫本人が取材陣が持ち込んだこの「サザエボン」のキーホルダーを携帯電話だか鞄に付けて喜んでいたという)
ここから示唆されるものは多い。
パブリッシャーなどというものは、単なる「装置」でしかない。更にそれはこの流通形態が激変する中で存在すら危ういものだろう。受益者にとってパブリッシャーの存在などは必須ではない(逆に時として邪魔ですらある)。受益者にとって必要な者はクリエイターであり、クリエイターはまた様々な「素材」を求める(その「素材」の使用を阻害するのも「パブリッシャー」やらそれにたかる法律屋だろう)。わたしは自由に「素材」を駆使したDJのプレイを聞きたいし、自由に「素材」を駆使した画像も見てみたい。そしてその時に、「素材」自体を呈示した創作者に対価を支払う事にためらいはないだろうし、それらを駆使した二次創作者にも対価を支払う事にためらいはないだろう。


*1:知り合いに電話で確認したところ、あの時に斎藤が買ったのはゴッホだけではなく、ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も含まれていて、「死んだら棺桶に入れて焼いてくれ」と言ったのは、ゴッホルノワールの二つだったらしい。またそのヒトの言うには斎藤がこれらの絵を(自分の物として)見たのは生涯に一度きりだったそうだ