使えない言葉

わたしは憲法改正に反対なんだけど、その理由は「今の憲法がすばらしい」からではない。とりあえずの了解事項だから守ろうとしているだけで、そもそもわたしはそれほど順法的でもない。
ではなぜ反対するかというと、今のこの社会を構成する人達は、多分この憲法制定当時のヒトたちよりもバカなんじゃないかと感じているからだ。
これは別に世代論ではなく、なんとなくの直感なんだわさ。
じゃあ、なにがわたしにそう感じさせるかというと、その中の一つに「言葉」がある。どうにも我慢ならない「言葉」があふれている。つい最近も比較的好きなサイトでそういった言葉の一つを見かけた。使っているヒトに含むところなどあるわけではないのでこれを見て気を悪くしてほしくないのだが(だったら黙れば良いんだけど、書かずにおれない自分が…)
では、どのような言葉が嫌いかというと。
「ふれあい」
「ヒヤリ ハット」
などの言葉がその例になる。
「ふれあい」と名のつく場所だの建物だのイベントがやたら多くないか?手垢にまみれて陳腐過ぎるし、本質から目を塞ぎ、耳を閉じようとしているように思えて仕方がない。ヒトとヒトなんてものは、結局片方が首を絞めて、絞められているほうが「キモチワルイ」というような分り合えない、それだからこそそれぞれに意味がある物なんじゃないんだろうか。「キモチワルイ」
「ヒヤリ ハット」という言葉を耳にしたのはもう何年も前、運転免許を取りに通った学校での事だろう。そこの教官がこの言葉をいたくお気に入りで、この言葉を連発して講義していた。なんとなくこの言葉を聞くたびに座りの悪い気分を味わったものだ。最近では「失敗事例どうのこうの」という奴で久しぶりにお目にかかった。この言葉にぶち当たるたびに自分では「危機事例」だの「危険体験」だのと言い換えていたんだが相手は「あ、ヒヤリハットのですね…」と来たもんだ。非常にケツの置き所が落ち着かなかった。
日本という社会は様々な概念を外国から輸入する際に、なかなかセンスの良い言葉を造ってきたと思う。だけどその造語能力というものが劣化しているように思えて仕方がない。つまり今のこの社会を構成する人達は、バカなんじゃないかと思えてしまうのだ。