暖かな風にさそわれて川沿いを歩いた。川とはいっても古くからの用水路の跡で、子供でも歩いて渡れるような川だ。そんな忘れられそうな川だがこの時期だけは趣が異ってくる。古くから桜が植え揃えられ、もうすぐ訪れる満開の季節ともなると近郊からヒトがおしかけ、ちょっとした観光名所になる。ただ、今は蕾がそろい始めたばかりでそれほどの人出はない。歩いていると一組二組レジャーマットなどを携えた家族連れと行き交う程度だ。
やがて、小さな川に似つかわしい小さな橋に辿り着いた。橋の途中にベンチがしつらえてあり灰皿も用意されている。そこに席を占めてタバコをふかした。橋から見る桜は川を包み込むように枝を伸ばしお互いに複雑にからみあっている。浅い川には鷺が毅然とした姿で歩き川面を見つめている。幼い兄弟が騒がしく橋を駆け抜けると一瞬静寂が深まったように思えた。あれからどれぐらいが経っているんだろうか。
その夜はお気に入りの音楽をかけながら本を読むともなしに眺めていた。そこに電話が鳴った。時計を見ると12時30分。「何してた」少々弾んだ声。別に何もしていないと応えると出て来いとの仰せ。何事かと思いつつ部屋を出た。
彼女とはいっても特定の恋人というわけではない。そういった時期もあったがお互に事情があり彼女は今別の男と住んでいる。12時30分というのは彼女の帰宅時間。彼女はいま、夜の街を彩る仕事をしている。
待ち合わせ場所で車を停めていると彼女があらわれた。いかにものスーツに大きなショールを肩にかけている。食事でもするとの問いかけに要らないと応えた。じゃあどうすると聞くと「桜が見たい」と唐突に応えた。ちょうどわたしも桜が見たかったので二人で夜桜見物もおつなものだろうと車を走らせた。
当り障りの無い話をしている内に車は目当ての場所についた。この桜の季節だけ特設される駐車場だ。真っ暗な中に2、3台の車が置かれている。小さな路地を抜けると川沿いに行き着く。それまでくだらない話題で愚痴をこぼしていた彼女の言葉が途切れた。
昼はそれこそ花見の客で立ち止まる事もできない。あちこちでシートを敷き、宴を張る人達もいる。日も暮れはじめるとライトアップが施され、それは見事なものだが、それでもヒトが多すぎる。しかしこの時間になるとライトアップは止められ、寂しげな街灯だけが桜を映し出す。川のせせらぎもよみがえってくる。少々寂しすぎる風景かもしれないが、しかしそれだけにより幽玄な風情が漂っている。さすがにこの時間ともなると誰も居ない。あちこちに昼間の喧騒の抜け殻のようにゴミが散らばっているばかりだ。
そんな中彼女は一言もしゃべらず桜を見上げながら歩きつづけた。その後をわたしは着いて行く。時折桜の花びらが風に舞うと手を伸ばしてそれを受け止めようとしながら、彼女は歩きつづけた。その後をわたしは静かに彼女を見ながら着いて行った。やがて橋に辿り着いた。彼女はその橋にも気を止めなかったがこっちに来てごらんと誘導した。橋から眺める満開の桜の風景。桜のトンネル。そしてその下を静かに流れる水のせせらぎ。それはまるでこの世とあの世を繋ぐ道のようだ。彼女はその風景に見とれていた、まるでそのせせらぎに溶け込むように見つめていた。わたしはタバコに火をつけて静かに彼女を見ていた。「満開の桜の下には、やっぱり埋まってるんやろうかね」不意にポツリと彼女が言った。「居るんだろうね」軽く答えると彼女は体を預けてきた「怖い」夜気に冷え込んだ肩が冷たかった、折れそうに細い腰が頼りなげだった。
ヒトは美を求める。しかしその美にヒトは耐えられない。わたしはひとりタバコを灰皿に投げ入れ、ベンチから立ち上がり歩き始めた。先ほどの兄弟が騒がしげに両親の元に走って帰って行く。満開はもうすぐ、もうすぐ喧騒が戻ってくる。