筑紫哲也

筑紫哲也 「私も週刊文春を告訴寸前に」週間文春2004年4月1日

人権、プライバシーの領域で、メディアは「加害者」になりやすい。ところが、その一角に身を置く私のような立場は、同じメディアからの標的になることも多く「被害者」の部分がある。岡留安則氏(「噂の真相」編集長)によると、私のような立場は”みなし公人”だそうで、何を書かれても我慢してきた。が、本人はともかく家族や周辺のことまで書かれると腹に据えかねることもある。他ならぬ「週刊文春」の記事で、告訴寸前まで行って思い止まったことがある。相談した弁護士は「勝算十分」という判断だったが、裁判の時間、労力、費用の事を考えて見送った。その後も、メディアの一部はますます“2ちゃんねる化”しており、私の我慢も限界に近付きつつある。そういうなかで起きた今回の出来事だから、私は我が身と引き較べながら興味深く見た。問題となった記事も一読したが、公益性があるとは感じられなかった。本人にとっての“被害”を食い止めるということであれば、出版差し止めも必然の道筋ということになるのだろうか。にもかかわらず、私が快哉を叫ぶ心境になれないのは、これがもたらす言論、表現の自由に対する“波及効果”のことがあるからである。個人情報保護法イラク派遣自衛隊をめぐる報道規制など、自由な言論や表現を抑制しようとする一連の動きがひたひたと迫っている。「牛刀を以て鶏を割く」ような判例が重なれば、ますますこの傾向は加速されるだろう。
プライバシーは尊重されねばならないが、人によっては不快、低俗と思われるような表現や言論を含めて許容される幅がないと、その「自由」は保たれないものなのだ。

この文章を取り上げたのは「筑紫哲也」で「2ちゃんねる」で便所の落書き*1だからなんだろうと思う。さして違和感は感じない。
メディアに携わるものと有名人としての報道被害と、アンビバレントな立場を全体的に印象吐露として書いているんだと思う。しかし結局「印象吐露」であるから弱いんだ。


*1:「インターネットの掲示板」を「便所の落書き」と喝破したのは筑紫哲也のニュース23であろうと思われる。当時の「多事争論」をわたしも見ていたが、筑紫は正確には「インターネットの掲示板を便所の落書きと言う人も居ます」と伝聞として伝えていた。だけど面倒なのでこのこの名付けは筑紫ということで“だいたい”いいと思っている