立花隆

(略)
今回の事件は、十九日の決定が正しくも述べているように、「プライバシー権表現の自由という、いずれも憲法の保障する基本的人権の衝突する場面において、それをどのように調整するかという困難な問題を含む事件」である。

ここで知っておくべき最初の事実は、プライバシー権憲法十三条)と表現の自由憲法二十一条)は、憲法上対等の重さを持つ権利ではなく、表現の自由(言論・出版の自由)のほうが、圧倒的に優越な権利だということだ。それは憲法の文言上からも明らかなのである。
プライバシー権(個人の尊重・幸福追求権)の方は、「公共の福祉に反しない限り」という条件の下での「最大の尊重を必要とする」にとどまる「尊重権利」であるのに対し、言論・出版の自由のほうは、「言論出版の自由は、これを保障する」と、明快にいいきられた「国家保証権利」である。
(略)
立花隆 週間文春2004年4月1日 緊急寄稿「これはテロ行為である」より一部)

これが無茶な論理でなくてなんだろうか。プライバシー権と共に「名誉権」もまた憲法には明記されていない。共に十三条の幸福追求権によって保証されているとされている。とすると、立花の立論を支持するならば名誉権もまたやはり表現・出版の権利に優越される権利であるという事になる。おめでとう「BUBUKA」は立花に支持された。葵のご紋「表現・出版の自由」の前にはプライバシー権も名誉権も粉々に粉砕されるらしい。誰か、立花の黒髭系アイコラ作成、早く!

このような文章もある。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/5894/H13spRonbun/H13spSenshu.html
ここでもプライバシー権憲法十三条より導かれるとしている事には変わりない。つまり「プライバシーとは、人が人として尊厳をもって生きていく上で必要な、他者に侵入されない私的領域を指している」としてそれを保証することが憲法十三条に掲げられた「幸福追求権」を満たす上で必須であると捉えられ、「人格的生存に不可欠な権利を保障する規定」とされるとしている。
それに対して表現・出版の自由によってもたらされる価値を「自己実現の価値と自己統治の価値」であるとしている。簡単にいうと「自己実現の価値」とは送り手側の価値であり、その自由を保障するものであり、「自己統治の価値」とはこれら言論表現活動によってもたらされる民主的な社会を保証するための価値だろう。後者については立花も上記引用部分以降に戦前、戦中の反省から得られた価値なのであるとして述べておりここには異論が無い。一般に「プライバシー権、名誉権と報道の自由」を勘案した場合、その報道に「公益性」が認められれば「プライバシー権、名誉権」は抑制されるという根拠はここにあるだろう。しかし、前者については表現者自身の自由であり、それは立花のいう「尊重権利」にとどまり、「公共の福祉に反しない限り」という制限がつく。早い話が「表現の自由言論の自由とは言っても(それに公益性がないならば)他人に迷惑をかけちゃダメだよ」ということである。
つまり、立花がざっくり「プライバシー権」対「言論出版の自由」と対立させて見せている論理は雑駁であり、「言論出版の自由」なるものも「自己実現の価値」と「自己統治の価値」と分別して見直した場合「国家保証権利」などというオールマイティーではないということなのである。
「言論出版の自由」つまり、「自己統治の価値」「自己実現の価値」によってこの社会が高められようとも、オールマイティーの「言論出版の自由」が認められれば「個人の尊厳」はなくなってしまうという事なのだ。(ある意味ではこういった社会もユートピアなのかもしれない。それが「鍵もかけない下町の長屋」を想定できればだが、あるいは「1984」で描かれたような高度監視社会を想定すれば恐るべきディスユートピアとなるだろう)

立花先生、やっぱり変ですよ。