内在/超越

わたしのよく行くスナックのママが人間を見分ける時によく使う基準に「心に空白*1があるか否か」というのがある。彼女に言わせると「心に空白がある者は男であれ女であれ、常に満たされない気持ちを抱えている」のだそうだ。心に空白のある男は夜毎この満たされない思いを埋める為夜の町をさ迷う。また、心に空白のある女は母よりも生活よりもこの心の渇望を重視し、家庭を出て夜の町に身を沈める。
中にはこのような空虚をまったく感じさせない人間もいる。心の中の空虚を抱え、答えの出ない謎に突き動かされる者から見ると、このように心に揺るぎのないかのような者は、なんとも羨ましいかぎりだ。
今月の「サイゾー」における宮台真司宮崎哲弥の対談を読んでいて、わたしはこのママの言葉を思い出した。M2の対談は宮台が気にしている三島由紀夫を巡る議論であり、両者における三島の評価であるとか、その三島が今現在の社会において持つ意味。つまり、宮台がこの今という時代状況で三島を持ち出す理由については述べない。当該の記事にでも当たっていただきたい。
その対話の中で彼等は「超越」と「内在」という概念を持ち出して三島とこの今の社会状況を捉えようとしているようだ。誤解を恐れずに単純化するとこの「内在」とは(何等かの求めるものが)内在し、充足している状態を言う。内在であれば全ては既に内在しているのであり、外部に何も求めるものはない。「超越」とは求めるものが内部に存在せず、それを求めて行動を起さなければならない。内在は充足されているようだが、自閉的に頽落して行き。超越は外部の、あるいは超越にある物を自己に回収するたびに結局それを否定し、さらに超越を求める矛盾を孕む。この辺りも充分議論の対象となるし、そう易々と答えが得られる問題でもないだろう。フッサールハイデガーを持ち出して語る余裕も無い。
ここで非常に簡単な事を考えてみたい。
この対談でも宮崎が持ち出しているように、ヒトは必ず死ぬ。なんとなくなんだがこの内在的な人間というのはこの簡単な事実に目を塞いでいるか、またはまったく疑問とも思わずに受け入れているかのように思われる。翻って思春期に「ヒトは死ぬ」「自分もいつかは死んでしまう」というどうしようもない設問を腑に落とすまで困難を感じた者は、ここで言う「超越的」な人間になっているような気がする。
人間と言うのは面白いもので、自分の感覚というのは完全なもので、自分の考えというのは一貫性を持っていると思いがちだ。自分の存在と言うのは疑うこと無い全きものであると考えている者が多い(そういうヒト達が「触法精神病患者の予防的拘束」なんて物を持ち出すに違いない。自分が反社会的な精神的疾患を患うかもしれないという不安には露ほども気に留めないんだろう)
特に子供の頃はそうであるに違いない。つまり、まだ自己の中の他者性が未発達であれば、この世界の全ては自分であり、その自分は無矛盾な全き存在であるのだろう。
ところがその全き存在である自分がいつかは死ぬ。ここで自己の存在の完全性は否定される。自己という有限な存在に気付かされる。*2この「自己の有限性」「自己の不完全性」に気がつく、そうすると「心に穴が開く」ここで穿たれた穴は、例えばこの自己の不完全性を「何か*3」によって充足させ「完全性」を満たしてみてもやはり満たされない。渇望感自体が自己目的化したかのように、やはり「次ぎの何か」を求めてさまよい続けるのだろう。

*1:書いていて気がついたが、一部のネットソサエティーでは(つーか、早い話がぁ界では)「空白」と言うと「匿名投稿者」一般を指すんだが、この場合は単に「空虚な空間」という意味であることは…読めば判るだろう。

*2:ここで突然例の麻原の「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」って奴(今調べてみると彼等のタームでいうと「バルドーの導き」って言うのかね)を連想したが、だからといって何等かの宗教的確信を「輸入」したってそれは超越を内在に持ちこんでいるだけだっての。つーか、彼等の中でのこの行為というのは自己解体の、いわゆる「マインドコントロール」の手法その物であるわけだ:敢えてそう断じるぞ。

*3:つまり宗教的確信だろうと、社会やら文化への自己同一性だろうと。