情報に対する立ち位置について

11月21日のodakinの投稿に思うところを少々。
別に弁明の必要も感じないし、「腐っているね」という言葉も、まあ、確かにそうだろうね。としか言いようがない。元々アングラ(ウングラ)の掲示板であるあめぞうの固定として発言し始めてからこの方、「腐っている」というような趣旨の言葉は散々浴びせられてきているわけだが、その言葉を返上するような事は何もしてきた思いがない。というか、そもそもできないだろう。

「価値相対化」と捉えられるかもしれないが、わたしは人間が満遍なく「真実」を認識できるなどとは思っていないし、多分実態としても全ての人間がこの世界というものを、少しずつ偏った視点からしか捉えられていないと思っている。

そのような中にあって、何が言え、何が言えないかを指摘したいという気持から、自分は文章を書いているんじゃないかと思う。

なので、主な主張である「腐っているね」という言葉は、そのまま受け止めることとする。しかし、odakinに一言申し添えるのなら、この言葉を選択し、ここに投稿したという「事実」だけは忘れないでいただきたいと思う。なぜ、この言葉をチョイスし、投稿するに至ったか。ここは自分としても非常に興味があるのだが、それはodakinにしか判らないだろう。


総会屋が汚いか綺麗かもわたしはわからないが。(つまり、保留しておくが)「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭」 顧客名簿 」へのリンクが、その「仕事の片棒を担ぐ」というような意味ではないだろうとは思う。

ただ、誤読というのは、読み手と書き手の双方に問題があるもので、確かに文脈として捉え難いものがあっただろう。

この「ノーパンしゃぶしゃぶ」というのは、呆れた官僚の実態とでもいうものを象徴的に示すもので、これがすべてではない。それは当時の報道を追っていた人ならば共通して把握できる「文脈」であろうと思っていたが、そうはいかなかったらしい。
何も、官僚がノーパンしゃぶしゃぶの接待を受けた。ぐらいで国は傾きはしないだろ。それよりは、それに象徴される官僚の省益、局益、更には私利私欲の追及は国を危うくする。
この国には蓋棺によって、その人物を聖人君子のように扱う文化がある。確かに、反論不可能な死者に対して批判を投げかけるのはあまり生産的なことででないだろうと思うが、しかし、だからといって「あった事をなかった事」とすることもできない。(ノーパンしゃぶしゃぶに行ったという言を言っているわけではない、その当時の接待習慣が蔓延していた官僚の世界に籍を置いていたという事を言っている)


事件も、犯人(と思われるもの)が自首してきて。少しずつ実態が現れてきているけれども、その中で、行き過ぎたマスコミの官僚批判が、このような人物を生んだ。というような論調がある。そして、マスコミに官僚批判を自重するというような発言もある。

逆だろう、というよりもまったく話が違うだろう。

そもそも、マスコミの発言を真に受けて「官僚はマモノ」などという思い込みを生んだこと自体がナイーブに過ぎる。
そして、敵/味方の二分法。

この未成熟、ナイーブさはどこから来るのか。それに興味がわく。