加害者の人権を守る理由

こういう事例があると「加害者の人権など守る必要は無い!」って発言があるんだけど、守る必要はある。それは何の為にかというと加害者の為などではなくて社会自体を守るためなんだ。


簡単な想定実験をしてみよう。現行制度では死刑はなかなか言い渡されない。二人三人を殺さないと死刑にはならないわけなんだけど、「こんなヌルいことではいけない」ということで、「ヒトを一人でも殺せば死刑」って事に制度を変えてみるとどうなるんだろうか。

今なら、一人殺した時点でまだ引き返すことができる。つまりその時点で悔い改めて刑罰に服せば社会に復帰できる。しかし、この新制度下ではすでに引き返せない。一人でも殺してしまえば死刑なんだから。もう何人殺しても同じことだ、徹底的に逃げてなんとか刑罰を逃れようとあがくだろう。もう社会に戻る道筋は残されていない。

犯罪なんてものは、そもそも「社会からの逸脱」なのであって、その逸脱が社会にとっては迷惑なのである。「加害者の人権を守る」という態度は、社会がいつでも逸脱した加害者が再度社会に復帰することを拒まないというサインなのであって、この復帰の道筋を塞ぐ事は加害者を社会からはじき出したまま、逸脱したまま放置するということに他ならない。
社会からはじき出され、放置されたものはまたいつ大きな逸脱を引き起こすかわからない。そして、社会は迷惑を蒙る。

制度設計の問題?

最近の法務官僚ってバカになったのか、こういった制度設計に問題があるケースが多い。身近な例では「飲酒運転の厳罰化」が挙げられる。飲酒運転をして人身事故を起こした場合、被害者を放置して運転手が逃げるという事例が増えているらしい。
その場で救護措置をしたり警察の事情聴取に応じれば飲酒がばれてしまう、翌日になってアルコールがすっかり体から抜けて警察に出頭すれば飲酒に関しては逃れることができると考えているようだ。

また、近々施行される駐車違反の「所有者責任」においても、駐車違反キップを切られて素直に警察に出頭すると罰金(反則金)と減点が課せられるのに、しばらく放置して「所有者責任」で追求されれば減点が課せられないということになってしまうらしい。つまり、真面目な者が損をするという制度になってしまっているようだ。

ジャーナリズムが罰を下す

「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」という非道な事件があった。ミリオン出版の雑誌がこの加害者を追っており、今月発売された「NONFIX」で編集者が「この犯人は許せない」という意識で事件を追っていたというような記述が為されている。

法の範囲以外の罰を下す、それもジャーナリズムが下すというのは正しい行為なんだろうか。
ルポとしては貴重ではあるだろうと思うのだが、必要以上の罰は、結局その逸脱者を追い詰め、却って社会を危うくする。