コメントをこねくり回す事の価値

昨日の話題にもかかわるのだけれど、毎日新聞佐々木俊尚が「ブログはジャーナリズムになりえるか」という一文を寄せている。


ネット時代のジャーナリズム:ブログはジャーナリズムになりえるか 佐々木俊尚の視点(毎日新聞)

日本のブログの多くは、一次情報に欠けている。現在のところ、日本のブロガーが積極的な取材を行っているケースは非常に少ない。多くのブロガーは、一次情報を新聞や雑誌などに依拠している。私の知るマスメディアの報道記者たちは、ブログに対して批判的な意見を持っている人間が実に多い。「しょせんはわれわれが集めてきた情報について、コメントをこねくり回しているだけじゃないか」というのである。

この意見は正しい。本当に信頼にたる一次情報などなかなかお目にかかれない。例えばこういったブログがある。
ゲーム脳問題最終報告 〜最後に最大のネタを用意していてくれた森教授よ さようなら〜 (アメリカ学研究所:2005年03月06日)
(via:「ゲーム脳問題は脳の問題ではない(1)」(kitanoのアレ:2005/04/18)こちらでは今後も「ゲーム脳」の背後にあるものを抽出しようとしている)

上記の「最終報告」では実際に「森昭雄」から「ゲーム脳」という主張の根拠である論文を取り寄せ、それを詳細に精査してくれている。この論文は「ゲーム脳」論争における間違い無い一次情報ではあるのだろうが、しかしこの記事自体は「一次情報」ではない。(敢えて言えば、サイト「アメリカ学研究所」のリテラシーを評価する一次情報という意味を持つ)
撮影された画像などが捏造であるなどというつもりは無いが内容のフレームアップという可能性は排除できない。わたしが直接「ゲーム脳」に対して語ろうとするならば、わたしも「森昭雄」から論文を取り寄せて読みこむべきなんだろう。(と、いうか、本来「森昭雄」なり「日本健康行動科学会」なりがこの論文をWeb上に載せるべきじゃないかと思うんだけど。つまり、世を動かすような「新説」を主張しようとするなら、その根拠を公示すべきであって、つまり立証責任は主張者側に有る。そして主張者がその根拠をWebに掲示するというのはその必要性とコストを勘案した場合、充分合理的だろうと思う)
しかし、ではこの「一次情報」を読んでいない大多数の人々が「ゲーム脳」について何も語れないのかといえばそうでもない。「コメントをこねくり回す」事に意味が無いわけではない。
この「最終報告」を取り入れるも批判するもそこには「政治的文脈」が働くだろう。自分と言うものの立ち位置、視座。そしてそこから導き出せる自分の「コメント」は「政治的文脈」の上に置かれる。そこで「コメントをこねくり回す」事によって、その「政治的文脈」が明確になり、自分の立ち位置やら他の人々との距離、位置関係を知ることができる。
そこで、自分の位置を修正しても良いだろう。つまりより自覚的に「居る」事ができるのだ。
個々の個人にとって「ゲーム脳」の正当性などどれほど意味があるだろうかわからない。しかし自分の立ち位置を知ることは非常に重要なことであるに違いない。

と、ここまで書いてきてなんとなく「最終報告」を書かれた「アメリカ学研究所」の作業が無駄であるかのような文章になっていて申し訳無く思えてきた。わたしはこういう作業が好きだしこういった作業をするヒトが好きだ。読んでいて非常にエキサイティングだった。