こつこつまじめに

エイプリルフールのネタで「女子十二楽坊資料館」が閉鎖(まがい)になったわけだけど。(ここ参照)。その騒動と、これ(「知のバランサーを欠く社会 〜北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」雑感」(R30))なんかを読むと面白い。
更に参考として。「カナダではエイプリルフールに納税者が大臣に騙された!」(エキサイト世界びっくりニュース)

R30では次のエントリー(「NHK「日本の、これから」は逆啓蒙電波だ」(R30))で階層化社会に触れたNHKの番組についても批判を展開して「もともと日本の国が数年前までは実質的な社会主義国みたいな前提で動いていたのだから」と指摘しているのだけど。
この話題、つまり「階層化社会」に対するアプローチの浅さと上記の「エイプリルフールに騙されるヒトと知のバランサーの弱体化(?)」は底で通じている。


つまり、日本において戦前どのような政体が取られていたかを顧みればわかるのだけど、それは「国家社会主義」であったわけだ。その前は幕藩体制なんだけど、これだって国家的枠組みを各藩まで落としてみれば、君主制と言うよりは「国家社会主義」に近いと思う。
日本の国家運営というのは「伝統的」に君主と国民間の契約の形をとらない。というよりも、日本人には「契約」という概念が希薄であるか嫌われる。

今回のライブドアVSフジテレビの争いにおいてもSBI北尾が「過半数の株を取得したからと言ってその会社を支配できるなんて考え方は嫌いだ」というような事を言ったらしい。本音かどうかはさておいて、こういった発言が会社買占めのプロの口から漏れ、さらにそれに一定の賛同が寄せられるというのは、この国が「株式」という契約形態によって会社が運営されているのではないということを如実に示しているだろう。

わたしは以前のエントリーで書いたように、この考え方は確かにこの日本の社会にアルと思っている。それがこの社会の暗黙のルール、地勢であって、それに逆らっても計画はうまく運ばない。「契約だから」「法律だから」といってごり押ししすれば想定どおりうまく行くと思うのは幼すぎる。しかしだからといってそれが良いとは思っていない。現在の地勢がそうだからといってその地勢が将来にわたって住むに相応しいかは別の問題だ。

契約に基づき、法の下に平等な成員の合意によって社会を運営するのが民主主義なら、この日本がそのような形になったためしはないだろう。今も違うと思うし、「戦後民主主義」と言われていた頃も「民主主義」とは言えたものではなかったのだろうと思う。

民主主義を言うのであれば、個々人はそれぞれが自由であり、考え、発言をする必要があった。しかしこの国が支配していたのは「空気」だ。

空気が行動を抑制し、思考を抑制し、そして発言を抑制していた。
そして出来上がったのがグロテスクな「大日本帝国」と「戦後民主主義」の社会だったのだろう。この両者は瓜二つの双子といえる。

成員に求められるのは、成員自体に求められる衣装を纏う事であり、その空気をいち早く吸収することだ。その為には「知のバランサー」としての権威が必要とされる。権威が成員の思考の方向性を指し示し、行動を教え善導すれば良い。戦前においてこの権威は皇室であり、戦後においては朝日やら岩波がこの役割を果たしてきたのだろう。

それらは「なぜ」を考えさせなくする。
「こつこつまじめに」働き、学ぶ事だけを求める。

これほどまでにその権威が没落しても尚ヒトは「活字を信じる」その一つの姿が「女子十二楽坊資料館閉鎖問題」なのではないだろうか。

マスコミ(特に朝日的な立ち位置に近かったという自覚がある媒体)ほど、イデオロギーに代わる「信頼確保のメカニズム」を編み出す経営努力が、今一番必要とされている気がするんだよな。

このような文脈では逆だろう。
確かにイデオロギーが亡くなり、縁(よすが)をなくした者達が新たに「国家」だの「公」だのを持ち出して「国旗・国歌」を押し付けるのは馬鹿の極みだ。しかししょうがない、そもそも社会には自分の頭で考えることが苦手なヒトと言うのが一定数居るものであって、そのヒトたちがこういったガジェットにすがらなければならないとするならば、それを取り上げることも無い。
しかし、「イデオロギーに代わる信頼確保のメカニズム」を成員にたいして構築してみせるということは、その成員自体の内発的な選別能力を弱体化させるだけであるとも思える。
考慮すべきは「権威」であるとか「信頼確保のメカニズム」を超えた新しい情報と個々人の関係性ではないだろうか。