「他者」を見出せない知的怠惰、補足

昨日の補足、<「他者」を見出せない知的怠惰:2005-02-01>

ここでも度々繰り返して語っていることですが、社会学的(経済学的)、システム工学的、そして数学的な知見はこの世を「決定論的」とはみなさないようです。前世紀、20世紀の繁栄を形作ったのはデカルト的な要素還元主義でしたでしょう。つまり、どのような事柄であっても、その事象の要素を求め、要素の性質、要素間の関連性を追及すればその全ては理解できる。星の運行においても理解できるし様々な工業的成功も要素を求め解析を進めれば何時かは人間が理解でき利用できる。経済の運営であっても、人間が理性的に好不況の波をコントロールできる(その究極がマルクス主義であって、それへの反発がドストエフスキーのアイディアであったのだろうと思います)。人間は世界を手中に収める全ての事柄をその足下に置くことが出来る。こう考えてみるとソビエト連邦の崩壊以降、共産主義陣営、社会主義的発想の人々が環境保護に走った事も理解できるような気がします。つまり、彼らは自覚的にか無自覚にか、経済の人間に依るコントロールに敗れた。しかし、同じような発想のまま今度は環境をコントロール可能であるかのように思ってしまったのではないでしょうか。
工業ですら決定論的ではなく確率論的な段階に指しかかっていると思います。数学はその領域をどんどんと狭め、語れる事の範囲に前提条件を付けていると思われます。この世には決定論的に語れることなどそんなにありません、というか、社会学的な領域まで要素が多量になればもうほとんど語れることなど残ってはいないでしょう。確かに常に厳密な考察が必要であるばかりではなく、時には大まかな前提の上で決定論的に語ることも必要でしょう。しかし、その時であってもその決定論定な立論に潜む不確定な要素を忘れてはならないのでしょう。そして必要な事は、常にこの不確定要素が潜み、この世はなにものもコントローラブルではないと「理解」することだろうと思われます。
人間自身が持つ不確定性。これを大澤真幸は「疎外」と捉えます。

本質的に不確実な世界を生きるとはどういうことか。人間が自律的な主体として自己決定によって行動しようとしても、自分では完全に制御できない匿名の力に影響されているように感じるということです。
何か制御できない自分ならざるもの、そういう力に、自分は翻弄されている。支配されている。いくら自律的であろうとしても、自分自身の内側に自分では制御できない、いわば「他なるもの」をかかえているということです。
「人間は本源的に他なるものによって所有されている」

人間の内にも、そして外にもこの自分ならざるものはあります。
人間は何を「嫌がる」でしょうか。「他なるもの」です。自分では理解できない、見慣れない、自分と同質ではない、同質になって欲しくないものに対して嫌悪感を覚えるのではないでしょうか。それは時には自分の中にあって、自分自身でも自覚的にか無自覚にか否定しているものであるかもしれません。エロティシズムなどはその好例でしょう。性行為を全く理解できない子供にはそれは単なる肉体接触にしか見えないでしょう。そこに社会的な価値、それもネガティヴな価値を見出すものがエロティシズムを「知りたくない」「見たくない」と思うのではないでしょうか。
そう、素直な言葉ですね。「知りたくない権利」自分の子供にだけ知らせたくないのならば「知らせない権利」であるべきでしょう。ひょっとすると「自分の子供が興味を持って見たり聞いたりすることすら、知りたくない権利」なのかも知れません。
この知的怠惰、つまりエロティシズムというものがあり、それと自分とをどのような距離に置くべきか考えようとせず、それを「知りたくない権利」と自分の知覚から排除しようとする態度は、様々な様相を呈して現代に溢れているように思われます。
アメリカはイスラムを理解したくないのでしょうか。アフガニスタンにおける困窮と、それが米国の貿易、世界戦略によって引き起こされたという事実を「知りたくない」ままにおいておいたのでしょうか。それによってパレスチナの困惑を「知りたくない」ままに放置し、やがてアルカイダという畝を生み出したのでしょう。そしてアルカイダの理論を「知りたくない」ままアフガニスタンに更なる攻撃をかけ、彼の地の困窮を深めたのかもしれません。そして全ての「悪」を「枢軸」に帰結させ、イラクのありもしない大量破壊兵器に怯えて防衛的先制攻撃という歴史上言い古された侵略を行ったのでしょう。そしてこの怯えも自らの侵略的な姿も「知りたくない」ままです。
日本もこの侵略的な一翼を担っています、しかしその事実も「知りたくない」ままです。
やがて100年もすればイラクに何が起こったのか、はっきりとすることでしょう。その時わたし達の世代は糾弾されることでしょう。しかしそれも「知りたくない」事のままです。
知らないこととはなんと幸福なことでしょうか。
そう、わたしたちは言えば良いのです。「パンがなければケーキを食べれば良いのに」と。
「人道復興支援に水を供給する」国自体を他国の軍靴で踏みにじられているイラクに「人道復興支援」を行う。パンの替わりにケーキを食べろというに似ていないでしょうか。
北朝鮮は「敵」だそうです。北朝鮮と交流し、彼の地を知ることは「工作活動にひっかかっている」事のようです。わたしたちは「知りたくない」ままただただ非人道的な政権を批判すれば良いらしい。少し想像を働かせれば一国を困窮させればその皺寄せはただ弱いものに向き、結局政権交代など望むべくもないだろうに。逆に、日本という他者の存在が、その攻撃性が却って彼の地においては現政権の求心力を形成するかも知れないだろうに。「知りたくない」まま知らずに置けば幸せなのでしょう。
「知りたくない」ことは知らない。知らないままでも良い。そして自己を否定する情報は耳にいれない、目に触れさせない。なんだかこんな様相を描いたベストセラーがありましたね。
確か題名は「バカの壁」と言いませんでしたでしょうか。