非常に的外れじゃないか?

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20050116
宮崎の場合は「家族」があり、小林の場合は「家族」から切り離されていた。「親」は我が子を宮崎にしたくないと思ったが、小林にはなると思っていない。これが宮崎が語られ、小林が語られない理由の一つだろう。他にもあるだろうが比較対象としてノイズが多すぎる。

マスコミ報道を考えるときには、以上のような消費者と、その消費者の欲求を満たすべく報道を続けるマスコミ各社の間の共犯関係性を考えなければ、問題は「マスコミ報道に憤る良識派市民」という非常に古典的なフレームに回収され、なにも進展しないままに終わる可能性が高い。それはやはり生産的な道筋を照らすことになるとは言えない。

共犯関係性とそのエンタテインメントの質は、「マスメディアもバカだが、その報道や番組を観る消費者もバカだ」という前提を孕む、極めてシニカルかつ自虐的な類のものである。80年代以降のマスメディアをめぐる送り手と受け手によって構築される現実は、概してそのような方向に傾いた

報道も一つのエンタテインメントであって、つまりは「ネタ」なわけだ。そこではリアルな個人が被害者として殺され、あるいは人生を破壊される。そして加害者もまた社会に引きずり出され投石刑を受ける。そしてそのネタを消費するものは、古代ローマのコロッセウムにおける観客宜しくパン(塩せんべい)を片手に鞭打たれるものに歓声を浴びせるわけだ。
報道が個々人にたいして社会の在り様を見せ、社会の在るべき姿を考えさせる機会を提供する。しかし同時にこの古代ローマから続く人間のどうしようもなさも未だに同時にあるというわけだ。
本題に関して。
フィギュア萌え族」という言葉が、その造語者である大谷昭宏よりもそれを批判したフィギュア愛好家によって社会に定着しつつあるかもしれないという指摘は面白い。わたしもそう感じていたし、唐沢俊一の指摘などもそれを指していたんだろう。
しかし、

結果として、「オタクがみずからの既得権益のためにギャーギャー騒いでいるぜ」というふうに第三者に認識されてしまっては、元も子もない。このようなリスクを回避するために必要なのは、現状の冷静な認識をした上でのプレゼンテーションである。

というのはあたっているだろうか。

「物語」というのは、当初の語り手のもとを簡単に離れてひとり歩きしていく。そしてひとり歩きする過程で、さまざまな人によって新たな物語が付加されて、内容を変えていったりもする。

という側面は確かにある。しかし、「オタク」であるとか様々に「世間から色眼鏡で見られる存在」というものは、その存在に名前が付加される以前から「色眼鏡」で見られるものなのではないだろうか。さしずめ、「ニート」なんてものもその好例だろう。
「オタク」であろうと「ニート」であろうと、個々の事例には個々の事情があり、これらの名前に纏め上げてざっくり語る事ができるか疑問だ。そもそも語る必要、つまり「問題」が無いのかもしれない。
それを今、「フィギュア萌え族」という言葉が血肉化したところで、どのような「プレゼンテーション」が可能で、それがどちらの方向に向くべきなのか。まったく見えてこないように思う。
つまり、大谷の指摘する前から秋葉原でショーケースに飾られた美少女フィギュアを食い入るように見つめていた素人童貞臭い男の子は胡散臭く見られていたのであり、何かのきっかけでその存在を社会から消したいと思っていた人々はいたのだろう。
つまり「さまざまな人によって新たな物語が付加され」る理由は、その対象にあるのではなく、その人々に既に内在化されていたのではないだろうか。